釧路ロータリークラブ 国際ロータリー第2500地区 Rotary Club of Kushiro
通 算
3478
2017-2018年度
18回 例会報告
2017年11月09日
例 会 内 容
嵯峨記念育英会の目指すところ
叙勲のご報告
伊貝 正志 会員
平成29年 秋の叙勲 「瑞宝双光章」
邵会長に「そんな紹介はやめてくれ」とお願いをしましたが、願い叶わず。21年間の調停委員の業績に関していただいた賞です。5年前にロータリーの会長を受けるので、調停協会の会長を、それを理由に断った経緯がありました。会長を協会長に就任。現職として活動しています。皆さんに支えていただきながらもらった賞だと思っております。会員の方達からもご過分なお礼やお品物をいただきましたことをこの場で改めてお礼を申し上げまして挨拶に代えさせていただきます。どうもありがとうございました。
会長の時間
会長挨拶 邵 龍珍 会長
本日は、嵯峨記念育英会のお話を吉田潤司ガバナーノミニーからお伺いすることになります。私も嵯峨に関しては、いろはのいの字も分からないド素人でございますので、本日しっかりと勉強をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。さて、先週の土曜日11月4日、プリンスホテルで「釧路の未来を考える会」の皆様の主催によって石破代議士をお呼びしてのセミナーに参加をして参りました。お題が「こんな日本をつくりたい!こんな釧路をつくりたい!」でしたので興味津々で参加をさせてもらいました。 その会の会長が当クラブの乗山会員。そして、木下直前会長と佐藤尚彦さんも会員であると認識しておりますが、石破さんを見てテレビで見る強面の顔ではなく、大変笑顔があってユーモアある講演をされていましたけれども、個人的には凄く印象が良かったのです。そのお話の中で、これからの日本の問題点という話がありまして大変危機感を感じたところでございます。皆さんもご存じのように人口減少ということがこれからの日本、大変問題危機感になると。その話の中で2100年、83年後ですから我々の誰ひとりも生きてはいませんけれども、その時代には日本の人口、いま1億2,000万人位、それが5,200万人に減少すると。またその中で2040年、23年後ですから、私、巳年生まれが75歳になる年です。多分生きていると思いますけれども、その話の中で、釧路の人口が106,000人に減少をする、ここまでは皆さん予想できたと思いますけれども、そのうちの20代・30代の女性が8,000人になるという統計です。20代・30代ということは、要はご結婚されて、お子さんを産んでくださる、そのような年代人達が8,000人まで減少をする。いま婚期が29歳〜30歳に遅れていますので、かなり減少に拍車がかかるのではないかという危機感を抱いたところでございます。この日本、経済的にどうするのか。特にこの北海道は世界に羨まれる大自然の資源がございます。その中で、漁業・農業・林業・観光を、このような分野でこの地域の方達がいかにそれを真剣に活かすことを考えていただけるか、そして人に喜ばれることをいかに真剣に考えていただけることが、この地域釧路の再生に繋がるのではないかということがキーワードだということをおっしゃっていました。結びに「いつの世も国を変えたのは地方からだ。そして地方には民衆がいた。その民衆が国を変えた」という締めの言葉を聞いて感銘を受けました。今後、厳しくなるこの釧路地方ではございますが、当クラブの皆様方が先頭に立って、釧路再生のために頑張っていただければということをお話申し上げまして会長挨拶に代えさせていただきます。
本日のプログラム
嵯峨記念育英会の目指すところ
嵯峨記念育英会委員会 委員長 池田 優 会員
本例会へ入る前にご紹介をさせていただきます。我がクラブの青少年奉仕活動の柱として継続、発展して来ました嵯峨記念育英会ですが、本日はこれまでご尽力をいただいた方にお話をいただきたいと思っております。1人目ですが、公益財団法人釧路ロータリー嵯峨記念育英会・吉田潤司理事長、そして泉敬パスト会長にお話頂きます。私が入会をしてまだ浅いということで、私自身も嵯峨記念育英会をしっかり勉強していきたいと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。
公益財団法人釧路ロータリー嵯峨記念育英会 理事長 吉田 潤司 君
本日は、育英会の歴史を少し抜粋したものを書いて参りましたので、これを見て理解をしていただければと思います。釧路ロータリーの嵯峨記念育英会は、釧路ロータリーの宝物だと思います。大きくは歴史があるということ。昭和36年にできました。米山奨学会ができたのは昭和27年ですから遅れること9年です。当時はインターネットもなければ電話も交換手を通してやった時代、手引き書も何もない時代によくぞこのようなものを作ったということが一番大きなところです。最初から対応型ではなく給付金型を作ったということも凄いことだと思います。ここに書いてありますけれども基金は5,500万円位がありますけれども、もしかウチのクラブの皆様方からご浄財をいただかなければ、多分同じようなものを他のロータリーでやると1億5,000万円位の基金が必要ではないかと思っています。ほとんど不可能だと思います。最近調べますと他の地区でもいろいろと育英会のようなものを作っていますけれども、米山奨学会だけは特別で、他のところはせいぜい年間30,000円位ということですけれども、そのような形でやっております。本日は『米山奨学会のこれからの問題』というで、この問題はほんの簡単なことで最後の方にお話しをいたします。大きく分けまして、嵯峨さんが育英会をつくったということです。当時のこと、嵯峨晃さんを知っている方というのは、釧路クラブでは、白崎さん、泉会員、清水先生、栗林定コさんしかいないのです。たった4人しかいなくて嵯峨久さんのお父さんのことになりますと、資料を調べたくてもほとんど何もなくて、この冊子の中にある写真もやっと手に入れていたみたいで、当時どのような動きだったかということがよく分からないです。それから嵯峨晃さんが、釧路の経済界で随分頑張って本当に飛ぶ鳥を落とす勢いなぐらいで活躍をしていたみたいですけれども、当時育英会が忙しいことを含めて立ち行かなくなって、泉先生が理事長代行をやりました。確か泉先生が30歳ぐらいのときだったと思いますけれどもこの激動の時代のことなどを泉先生に話していただければと思います。次に大きくは、育英会は泉先生がやられていましたけれども、泉先生も非常に当時新進気鋭の弁護士だったもので、なかなか育英会の仕事にも手が回らない。当時、またクラブにも委員会、育英会にも評議委員会がありましたが、実行部会というものはなかったようで、お金は潤沢にありましたけれども上手くいかなくなり、それで昭和50年に「釧路クラブに移してください」と言われて移って参りました。当時移って来ましたときに評議委員の中には、元ウチのクラブの人で他クラブの人が入っていたということで、ウチのクラブに移管されたときに釧路ロータリークラブ嵯峨育英会にはならなくて、釧路全体のロータリーの中の育英会ということで「釧路ロータリー嵯峨記念育英会」になったということです。その後に育英会を泉先生がやられていましたけれども、結局昭和50年に嵯峨家の方から「釧路ロータリーの方で移換してもらいたい。無償譲渡をします」ということで受けたという経緯があるのです。初代の理事長が嵯峨誠さん。私が1980年に入りましたそのとき、2か月ほど誠さんとは一緒にロータリーにいました。非常に人気のある方だったと記憶しています。お酒はあまり強くなかったけれどもお酒が好きだったということもありました嵯峨さんも突然亡くなってしまいました。このあたりが、ロータリーが育英会の形を作るまでに少し時間がかかった時期だったと思います。そのあとに宮原先生という重鎮が理事長を継ぎまして、それから村上さん・藤井さんと継いで来ました。村上さんが継いだ後半、藤井さんが理事長を継いだ時期がやっぱりロータリーの一番大変な時期だったのです。当時、クラブには嵯峨記念育英会はありましたがあまり機能しなかったというか、昔から理事長を中心にやって来たという経緯がありまして、内幕がよく分からなかったのです。当時、泉先生からよく「嵯峨記念育英会は大変だよ。このままだったらなくなっちゃうよ」と聞いていました。でも当時、私も理事の1人でしたけれども「育英会って5,000万円近いお金があるのだろう。そこから取り崩せば良いじゃないか」と非常に簡単に考えていました。当時の法人の制度では、一度基金に積んだものは取り崩すことはできない。なくなってしまったらそれは国などにお返しをしなければいけないという時代でした。基金が集まらないということで、奨学金を払う手立てがなくなりまして、当時、道の指導では「いわゆる株式などに投資をしてはダメです」というような内々のお話がありました。でもお金を生む方法がなかったので当時のグローバル証券で分配型の投資信託で奨学金を作っていました。分配型ですからお金はどんどん入ってきました。確か1,500万円位多くグローバル債券で買っていました。お金は入ってきたものですから給付金はどんどん出て行きました。私達も知らなかったもので気が付きましたらもの凄く目減りしまして半額以下になってしまいました。それで当時の藤井理事長が、顔には出しませんでしたけれども大変困っていたと思います。結局は、もしそれが道の監査などで分かってしまったら、その穴埋めをしなければいけないことになるだろうと、泉先生も含めて随分心配をされていました。そうこうしているうちに藤井さんが体調を崩されました。多分心労も大分あったと思いますけれども、当時で半分ですから750万円、それ以下ぐらいになってしまったものですから、これをどうするとなると心情を察するに余りあるぐらい大変だったと思います。藤井さんが辞めますときに私に「次をやってくれ」ということで、いざ私が受けてやっていたときには大変で、これは1人の力ではどうすることもできない。どうにもならないという状態でした。当時、法人改革がありました。いわゆる社団法人、財団法人を持っているところが、法人をカクレミノにしていわゆる財産を隠すとか、漢字検定協会みたいなところでそのような事件が続いたので法人改革をしなければダメだということでした。釧路ロータリーもその法人改革をしなければならず、期限がかなり厳しく定められていて、一般社団法人になるか公益財団法人になるかという選択に迫られました。そのときは理事会ができましたので、その中で随分検討をいたしました。一般社団法人になると非常に手続きは簡単で、すぐにできますけれど財政面の優遇がないということでした。道の方が来られまして指導の話を聞きましたときには、「嵯峨記念育英会は非常に公益性が高いから公益法人を目指しなさい」ということだったので、公益法人を目指すことになりました。今度はその公益性を高めることでかなりなことを言われました。「規約を作れ」とか「奨学生を選考する基準はどうなっているか」とか。当時の選考基準というのは、釧路湖陵高校と武修館高校で1人ずつ推薦してもらってフリーパスで入れていたのです。「これは認められません。広く公告をしなさい」となりまして、いまは釧路新聞などでも記事で書いてもらって全学校に公告として出しております。「審査の方も外部から登用しなさい。記録を残しなさい」と言われました。例えば「Aさんをどのような基準で選んだのかをやりなさい。審査員も何人か集めてその人達にも分かるようなものを出しなさい」と随分と言われました。いろいろと難航して苦労しました。公益法人になるときに一番手伝っていただきましたのは、甲賀会員と尾越会員です。何もかもやっていくうちにやっと公益法人になることができまして、外部からの人もいました。私達も選考の推薦を受けると知っている方が来ます。「これは」ということで、いろいろと考えまして、釧路市の人じゃない方が良いのではないかとなりまして、いまはウチのクラブにいて転勤もされている現在は日銀の支店長さん、NTTさんなど何人かの人に頼んでおります。その方は多分地元にそのような子弟の知り合いがいないのではないかということで、その人達に選考委員をやってもらっています。選考をしますと、昔は「苦学生の学術優秀」を条件に出していましたので、学術優秀者が凄く来ますと家庭的に凄く恵まれている方が非常に多くて、最近は学術優秀を外して「苦学生を」ということで募集をしています。推薦文を見ますと片親の方、それから地方から釧路へ来る方、兄弟がまだいる方など非常に選考するのに全員選んであげたいぐらいの状況であります。多分、選考委員の方も頭を痛めているのではないかと思います。もうひとつは、学校から複数名を推薦されるケースが多くなってきました。ある高校から2名〜3名が来たときに、1名だけ承認すると残り2名の方の気持ちを考えますとこれも辛いものがあります。学校に推薦を1名だけにしてくださいと言うわけにもいかないこともあります。一昨年、奨学生を呼んだときに、ある奨学生が例会に来なかったときがあって、理由を聞きましたら「奨学金をもらっていることが分かると恥ずかしい」が理由だったのでこれには非常にショックを受けました。その後にいろいろ考えたときに、ひょっとしたら奨学金をもらっているということで他のもらえなかった学生から何かいろいろと白い目で見られているのではないかという気持ちもありました。このあたりも非常にいま困っていることだと思います。それで、奨学生の現在の問題点は、5,500万円の基金がありまして、せいぜい50万円〜60万円位しかお金が集まりません。年間、いまの形でやりますと140万円〜150万円位給付をしなければならないのです。いまの奨学金は月額10,000円を3年間給付しています。どこかの段階で給付金を上げなければいけない時代が来るのではないか。 そのときに、その財源をどうするか、どう捻出をするか、頭が痛い問題であります。いま急に金利が高くなるということは考えられないので、私の気持ちとしては、米山奨学会は米山奨学会で大事ですけれども、米山奨学会でも何かで寄付されるその半分を嵯峨記念育英会へ寄付していただければ、そしてやはり基本的には、浄財を給付金にあてますが、そうではなく基金を毎年目標的に増やしていければ良いと思っております。でも、皆様達にいまも年間4,000円位もらっています。これも一度にドンと上げてくれと言われても行かないものですから、このようなことも問題になっています。これからの嵯峨記念育英会を現状のままでずっと続けて行っても、いつかどこかで給付金を少し上げなければいけない。その差を100円・200円上げるわけにはいきませんから1,000円単位で上げると年間40,000円〜50,000円位上がってしまします。ですからこれも大変なことで、このようなところが非常に頭の痛いところであります。問題点はそのようなことです。育英会の冊子を読むことも大変ですけれども、歴史的にはこのような流れで来ていることをご理解していただきたいこと。嵯峨記念育英会の基金は大体5,500万円位だと思っていただきたいこと。給付金の総額は40年位で驚くなかれ5,000万円〜5,500万円位の給付をしているということです。これはウチのクラブの会員の皆様からいただいたお金の中で作ったものでこれだけ給付をしています。その意味では誇りに持てるのではないかと思います。歴史的には、このようなことと、現在の悩みはこのようなことではないかと思います。公益財団法人になりまして格が少し付きましたのと、組織的には非常にしっかりしてきました。そろそろ私の役目も終わるのではないかと思いますけれども誇りに持てる育英会になったと思います。本日は、これから泉先生から激動の昔の嵯峨育英会のお話し。私、子供の頃嵯峨さんの家のすぐ近くに住んでいたことがありまして、遊びに行ったときにびっくりしました。武家の侍か大名の家へ行き、玄関を開けると段の上にこのような小さな鋲のようなものが置いてあって、そのぐらい凄い家だなということがありました。中には入りませんでしたけれども見ただけでびっくりしたその印象はいまでも持っております。その嵯峨さんがいまのお金でいえば1億円位の私財を投じて基金を作ったことはそう簡単にできる芸当ではないと思います。以上でございます。
公益財団法人釧路ロータリー嵯峨記念育英会
泉 敬 パスト会長
もうかれこれ57・58年前の話を思い出してやれということで、かなりメチャクチャなことになろうかと思います。たまたま私が昭和35年に入りましたが、年齢もまだ26歳だったので嵯峨さんを知るようになったのはそのとき以降ということになるわけです。従って、いま話に出ていた嵯峨晃さんの先代の久さんがどう関わったかということについてはちょっと分かりません。嵯峨さんの先代は確かに釧路漁業の一番初めの金井さんとか何人かが漁業に力を注いだ方のうちの有力なメンバーであった。34年か35年に亡くなっています。私が入る1年前に久さんが亡くなっているので、37年にこの育英会ができた当時、久さんがどう関わったかは、私は承知しておりませんが、この資金の出所は久さんの遺産相続ということで、晃さんのお母さんで、久さんの奥さんの了解の上で育英事業にこのお金を使うということになったと当時聞いておりました。スタートをしたときには、1,050万円を拠出されたわけですが、このお金で運営をするということでした。法人ですからこれは取り崩すことができない基金、これに1,000万円を与える。当時利息銀行預金で6分くらいはありました。そうすると年間60万円位回って来るということで、そのような形で出て来るお金は全部育英事業につぎ込みたいと、そうするとこの育英会を運営していく資金が全くないわけですが、この50万円もそれに使うのかと思ったら実際上は、嵯峨さんが全部個人的に負担をしておりました。スタートのときに、この総会を年に1回ぐらい開いて、数年はご存じの方もおられると思いますが、いまはなくなった「八浪」という料亭で理事あるいは理事会・評議委員会を2年ほどやったと思いますが、3年目ぐらいからは嵯峨さんの自宅で理事会も評議会もやったと記憶しています。そのようなことに関わる費用一切を嵯峨さんが自分のポケットマネーからその基金とは別に負担をしておられます。そのような関係で、当時、嵯峨さんが体調を崩されたころから釧路クラブへ移行したいというお話しがありました。なぜそうなのかというと、利息の利率が段々減っていくことになると、奨学生に奨学金として渡せる金額が段々少なくなってくるということもありました。当初は大学生も対象にしておりました。それが段々できなくなるという中で、このクラブに何とか移行できないかと。ということは、運営資金をクラブでなら何とかなるのではないかということがありまして、お願いをしていたということです。この創立のときのことを考えますと、これは創立時の役員・評議委員、いま見てみますとほとんどロータリアン。北クラブにいた方は何人かいますけれどもその方も元は全部釧路ロータリークラブのメンバー。つまり嵯峨さんは、釧路ロータリアンの中で、この育英事業に賛同してくれる人達を役員・評議委員に全部取り込んでいました。その関係でロータリーに引き継いでもらえることが一番適当であると判断してそのお願いをしていたのです。そのうち嵯峨さんがお亡くなりになったので、私がそこで代行ということになっていますけれども、代行を引き受けたということではなく、他に関わる人がいなくなってしまったということで、しばらく奨学生は大学生までいましたので、継続的に支給をしている人達がいたわけです。だから「自分がもらえることになっていた奨学金をずっと継続してもらいたい」というお手紙などが私の所に来ておりまして、これは私の方で手続き的に移行することで全部そこをまかなっていました。ただ新規の奨学生を、評議委員会を作って新たにやるところまでは行かないということで、ロータリークラブに正式に承認を受けて移行してもらったのが経緯になろうかと思います。もうひとつ、私が皆さんに知っておいてもらいたいことは、嵯峨さんこれを作った意図です。当時、考えても私自体あまり分からなかったのですけれども、嵯峨さんは当時ボーイスカウトの指導をずっとしていた方です。息子さんの誠君もウチのクラブのメンバーでしたが、やはりボーイスカウトに関わって、時々ボーイスカウトのスタイルで例会にも顔を出していたことがありました。なぜ、ボーイスカウトと関わりがあるのかということですけれども、どうも結びつくことは、後藤新平。大正時代の関東大震災を知っている人はどれだけいるかは分かりませんが、その復興事業をやった、立案・計画・実践をした人が後藤新平です。有名なのは、言語録に載っているとおり、人づくりに非常にウェートを置いた方です。ボーイスカウトを作ることもそのようなことで、洋行中のロンドンでボーイスカウトの活動を見て、深く感銘をして全国に少年団体を立ち上げて、初代会長になっているのですが、これが東京の震災後の復興に大きな役割を果たしたということがあったようです。「人の世話にならないように。人の世話をするように。そして報いを求めないように」ということをモットーとしていた方のようですが、この方の信条に共感をして、人づくりということについて、このボーイスカウトとの繋がりをみると嵯峨さんとの結びつきがなるほどと私は理解していますが、当時、嵯峨家自体はそのような話をあまりしませんでした。私もロータリーの青少年育成にかける志は引き継いで行きたいということだったので、先ほど吉田さんから話があったように資金がこれからも一番カギになると思います。皆さん知っているかどうか分からないのですが、年度末に決算をして、若干でも残れば嵯峨育英会の方へ資金として加えていたことを過去の会長は知っていると思います。そのように目に見えない形でやって来ています。邵会長にもまたそのような機会があればそのようにしていただければ、そうしないとなかなか続けることが難しいと、皆さんの協力で釧路から釧路の青少年のためにということが大事です。それともう1つは、奨学金の中では極めて返還を求めない。つまりやりっ放し。これは、奨学金をもらって、その後で返すことが大変だという話をたくさん聞かれていると思いますけれども、それをしなくてもよいというユニークな当時の存在でありました。いまもその形で来ていますけれども、できればウチの会で続けてやって行ければありがたいと思っています。以上です。
【なゆたの会より米山記念奨学会への寄付】

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伊貝 正志永年の調停委員の業績で秋の叙勲をいただきました。
今年度累計 174,000円