釧路ロータリークラブ 国際ロータリー第2500地区 Rotary Club of Kushiro
通 算
3533
2018-2019年度
25回 例会報告
2019年01月24日
例 会 内 容
年男大いに語る
会長の時間
会長挨拶 脇 弘幸 会長
 改めまして、こんにちは。昨晩、雪が降ったものですからその影響なのか、今日は若干出席が寂しいような気がしますが、お話をさせていただきます。
 本日の会長の時間では、浅川幹事が経営をしているフランチャイズ店「ケンタッキーフライドチキン」の創業者である『カーネル・サンダース』についてお話をしてみたいと思います。
 カーネル・サンダースが、ロータリアンだったということは結構有名な話です。私も知ってはいましたが、それ以上のことは知りませんでした。それで少し調べてみましたので、その話をしてみたいと思います。
 お店の前で白髪頭に白いスーツを着て立っている「カーネルおじさん」の人形、あの人形の上着にはロータリーバッジが付いているということです。このことは私も知らなかったので、先日で出かけたときに「カーネルおじさん」に会って来ました。確かに上着の左胸のピンホールのところに結構リアルなロータリーバッジが付いていました。
 カーネル・サンダースの本名は、ハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders)というそうです。なぜ、カーネル・サンダースと呼ばれているのかは後ほどお話をするとして、カーネル・サンダースは、1890年にインディアナ州のヘンリービルで生まれます。6歳のときに父親が亡くなって大変苦労をしたそうです。10歳から家を助けるために近所の農場で働き始めます。そして、16歳の時に軍隊に入るのですが、年齢を偽って入っていたのですぐにバレてしまい除隊になります。その後はいろいろ苦労をしたようで、40以上の職を変え転々としたそうです。
 そして、1919年、29歳の時にケンタッキー州のニコラスビルという街でガソリンスタンドを始めます。このガソリンスタンドが繁盛して、やっと安定した生活ができるようになったそうです。しかし、その後10年ぐらい頑張っていたのですが大恐慌のあおりでガソリンスタンドを閉めることとなり、街を移ります。同じケンタッキー州のコービンという街で、もう一度ガソリンスタンドを始めます。その時にガソリンスタンドの一角にテーブル1つと6つの椅子を置いて『サンダース・カフェ』をオープンして、手作りのフライドチキンを提供しました。それが大ヒットとなるわけです。おそらく、これがケンタッキーフライドチキンの始まりだと思います。そして順調に事業も進んでいくのですが、その中でカフェを手伝っていた息子が20歳という若さで病死します。
 1935年、45歳の時に、その州で料理での貢献が認められて、ケンタッキー州知事から、「カーネル」、陸軍大佐という名誉称号を受けます。ここから"カーネル・サンダース"と呼ばれ、親しまれるようになったということです。
 そして、事業も拡大し、順調に進んでいたのですが、49歳の時に火事でお店も全て失うこととなり、またゼロからのスタートになってしまいます。しかし諦めずに、51歳で手持ちの資金を全て注ぎ込んで、サンダース・カフェを再建します。サンダース・カフェはオープンできたのですが、その時にはハイウェイ建設などで街の状況が変わってきていて、見る見るうちに業績不振におちいり、結局サンダース・カフェを手放すことになり65歳にして、なんと無一文となってしまいます。
 手元に残ったのは、フライドチキンのレシピと圧力窯だけだったということです。それで、もう全て引退をして年金で暮らそうかと考えたそうですが、その時にもらえる年金がとても少なく、これではどうしようもないということで、何かやれることはないかとすごく考えたそうです。そこで思い付いたのが世界で最初のシステムとなる「フランチャイズ」というもので、そこからフライドチキンのレシピと圧力窯を持って全米を駆けまわったそうです。そして「フランチャイズの契約を」ということでお願いをするのですが、1000軒以上に断れたそうです。それでも諦めずに契約にこぎ着け、そしてフランチャイズ店を広げて、今の世界的なチェーン店になったということです。
 ここまではロータリーに関係のない話ですが、ここからロータリーに関係する話をしたいと思います。カーネル・サンダースは、若い時からロータリアンとして熱心に活動を続けていたそうです。1919年の29歳の時にインディアナ州のジェファーソンビルロータリークラブのチャーターメンバーとして入会をして、その後ケンタッキー州のコービンロータリークラブを経て、同じケンタッキー州のジェルビービルロータリークラブのメンバーとして活躍し、1980年、90歳の時にその生涯を閉じています。
 カーネル・サンダースが、事業をすすめていたときのスローガンは「他人に最高のサービスをする人間が最も利益を得る人間だ。自分の利益を考える前に他人にサービスをしょう。」というものだったそうです。どこかで聞いたことがあるようなフレーズですよね。これは皆さんご存じのロータリーの標語「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる。」それです。そして、ビジネスの基本としていたのが次の4つだったといわれています。1つ目が「そのビジネスに嘘偽りはないか」、2つ目が「そのビジネスは関係する全ての人に公平か」、3つ目が「そのビジネスは良好な人間関係を作っていくものか」、4つ目が「そのビジネスは関係する全ての人にとって有益なものか」、この4つだったそうです。これも聞いたことがありますよね。そうですロータリーの四つのテストなのです。
 カーネル・サンダースは、この四つのテストに照らしながら自分の事業を進めていたということです。この四つ項目に「YESと答えられる事業が本当の事業だ」といっていたそうです。
 ですから、カーネル・サンダースは、ロータリーの理念を持ち続けた中で、決して諦めずに65歳になってからもしっかりとその人生を最後まで貫いたということで、その人生からいろいろ学ぶところがあると思ったところでございます。
 余談ですが、カーネルおじさんの人形は日本から広まったそうです。日本のケンタッキーの偉い方が、カナダに視察に行った時に、イベントで使用した人形が倉庫に置いてあったのを見つけて日本に持ち帰り、その人形を店頭に置いたことから始まったそうです。
 では、なぜ白いスーツ姿のデザインなのかというと、あれはフランチャイズでどんどん大きくなった時にテレビ出演の依頼が来たそうです。その時に1年中白いスーツ姿でテレビに出演していたことからあのデザインになったそうです。
 以上、少し長くなってしまいましたが、「カーネル・サンダース」、カーネルおじさんのお話をさせていただき、会長挨拶とさせていただきます。本日は、どうぞよろしくお願いいたします。
本日のプログラム
年男大いに語る
プログラム委員会 委員長 日理 一哉 会員
 皆さま、お疲れ様です。プログラム委員会の日理です。本日は『年男大いに語る』ということで5名の対象者がおります。伊貝会員・滝越会員・関向会員・池田一己会員・樋口会員の5名になっておるのですけれども、あいにく4名の方が都合が悪いということだったものですから、伊貝会員時間はたっぷりございますので大いに思いのたけを語っていただければと思っておりますのでよろしくお願いいたします。
伊貝 正志 会員
 皆さん、こんにちは。本日スピーカーとしては私1人だそうです。役員の方から「延ばして話すように」という指示が出ているわけですけれども、用意をした話がそんなに長くはないと思いますけれど、お耳を傾けていただければと思います。
 私は、6回目の年男で72歳を迎えたわけです。この歳になって時代の流れの早さに付いて行けないような、そのような昨今だと感じています。
 私は釧路綜合印刷という印刷業ですが、時代の流れで苦戦をしております。私どもは紙に印刷をして、印刷物を皆さんの元にお届けをする、それがなりわいの業種なわけです。10年ほど前までは紙媒体、新聞広告・広告チラシそれからDMはがきなど全て紙に印刷をした物が皆さまのお手元に届く形のメディア媒体でありました。
 それが、パソコン・スマートフォンのデジタルIT化で、インターネットと物のつながりがIoTですね。それから「AI人工知能」というソフトが充実したために、紙に印刷しての情報伝達ではなく、ITでの情報伝達に変わってきたのがこの昨今でございます。
 この事例として、皆さんに理解をしていただける話としては、日本製紙釧路工場長が昨年の12月19日に「日本製紙クレインズというアイスホッケー部を廃部する」と話し、皆さん当然お聞きかと思います。先週でしたか、クレインズを存続させるための署名を皆さんにお願いした経緯もございましたけれども、その廃部に至った大きな原因が「紙事業の減少のため業績不振に陥った」というような理由でございます。紙需要が減少したことに伴ってこの1月1日から印刷用紙が20%の値上がりになっています。製紙業界の苦しさがもろに私どもに覆い被さってきているような現状であるわけです。
 毎日紙を多量に使う媒体として新聞業界がありますが、購読する若い人たちがほとんどいなくなっていることに伴って大変な状態になっているようです。毎年毎年、購読数が減るため、その都度紙の使用が減っていくわけです。ですから吉田秀俊さんの新聞配達をする業界も同じような形で時代の流れの中で苦戦している業種になっているかと思います。
 なにもわれわれ印刷や紙などではなく、あらゆる業種にいまITの影響が出ているわけです。こう考えただけで、デジタルカメラの普及に伴ってまずカラーフィルムがなくなりました。それからフィルム現像をしてプリントしてもらうDPAのお店、そこへ持って行って焼き増しなどをしてもらったわけですが、そういう店がなくなりました。それから車を持たなくなったとか、ハイブリッドになって燃費が良くなったことでガソリンスタンドの数が半減しております。これはまだまだこれからも減少の傾向をたどると思います。それから百貨店と称するデパートが、アマゾンに代表されるような通販から被害を被って非常に苦戦をしております。釧路ではデパートとは言いませんが、この1月20日ヨーカドーが店じまいをしたことも多少の原因はあろうかと思います。
 自動車業界も、ガソリンを使ってエンジンで走る車から電気自動車・水素の燃料電池自動車に置き換わっていくという形で、この業界もなかなか大変なことのようです。
 それで、これから車を造る上で「CASE(ケース)」という4つの頭文字を組み合わせたCASEが伴った車を造っていかなければこれから生き延びていけないそうですが、C・A・S・E、これをケースと呼ぶわけですが、まず「C」が「Connected」コネクテット、接続するということで、IoT技術で車と通信が一体になってやり取りができるというようなことです。いま中国の配車アプリを出している「DiDi」、これが大阪に進出して非常に使い勝手の良いアプリで、近くにいる車がすぐに来てくれるという接続性の良いことになって来るということです。
 それから次の「A」が「Autonomous」オートノマス。これは自動運転技術です。これは皆さんニュースでお聞きかと思いますけれど。事故が起きて今は少し頓挫しておりますが、これもどんどん進化していくことだと思います。
 それから次の「S」が「Sharing」シェアリング。共有するという、車は自分の持ち物ではなくみんなで使う、そういう乗り物に変わっていくと。みんなで使っていくというようなそういう時代に入っていくのだと。
 最後の「E」が「Electric Vehicle」エレクトリック・ビークル。これは電気自動車に代表されることですが、イーロン・マスクのテスラに代表されるように電気自動車の時代になって来るわけです。電気自動車になると、これからは大きなメーカーでなくても車を販売するような時代になるのかと。そうすることで価格も安くなり、皆さんも買いやすくなるという一面があろうかと思います。
 それで、私が驚いたことは、飛行機です。これもジェットエンジンで飛んでいるわけですが、これも電気のモーターで飛べるようにいま一生懸命研究をして、100人乗りぐらいの飛行機はもう可能という状況になっているそうです。ジェットエンジンから電気に代えることによって騒音がなくなる。騒音がなくなると空港周辺が「うるさい」という騒音に悩まされることがなくなって、早朝や深夜の飛行も可能になってくるだろうということです。思わぬ業界にもそのような新しい波が波及しているということです。
 このような大きな変革の中で、チャールズ・ダーウィンの「進化論」の中の言葉がピッタリ当てはまると思っていました。種・タネ。これは生物、生き物を言うわけですが、生物は最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生きるわけでもない。それじゃ、何が生き残るのかというと、唯一生き残るものは変化できるものである。
 具体的にはどう変化していけば良いのだろうか。これは、皆さんに見える形で説明する物を用意して来ました。結構時間はつぶれますね。ゆっくり話してくれというので、ゆっくり話をしたせいで。
 いま来る途中、バナナを4本買って半分にしたものを持って来ました。バナナは手前の方が大きいのです。後ろの方が小さい。と、皆さん、そのように見えますよね。私のおやじは手品が好きでやっていたので、これからマジック、そうではなくタネも仕掛けもない話を。これ、こう見えるものを切り離します。それで合わせます。同じ大きさなのです。こうなっていたものを重ね合わすと実は同じ。この発想の転換、これが時代を変革する中で生き延びていく唯一のことだと思って皆さんに事例として話したわけです。
 産業革命と言われますが、思考革命、考え方を改革していく、そういう時代になった中で、どうやってこれから残り少ない時代の年数を生きていくか非常に悩ましいところです。
 私の話は、そのような時代の流れの早さに付いていけなくなった年男のぼやきという形でスピーチを終わらせていただきます。どうもありがとうございました。


閉会・点鐘
その他の報告
ニコニコ献金
お名前(敬称略)内     容
阿部 勝義突然激痛が肩に走り右肩が回らなくなりました。病院で五十肩のなりかけと診断され、それでなくても下手なゴルフが更に下手になるとショックを受けています。隔週での筋肉注射と週2でのリハビリに通い出しました。釧路銀行協会の新年交礼会の記事が釧路新聞に掲載されましたので献金します。
今年度累計 834,000円