釧路ロータリークラブ 国際ロータリー第2500地区 Rotary Club of Kushiro
通 算
3471
2017-2018年度
11回 例会報告
2017年09月21日
例 会 内 容
鳥取神社訪問・見学例会(移動例会)
クラブ総会
議長 邵 龍珍 会長
当クラブ会員より提案された制定案について、標準ロータリークラブ定款第22条第1節に基づき、本日ご出席された皆さまの3分の2以上の賛成を得た後、釧路RCとして第2500地区へ提出させていただきます。地区立法案検討会を経て、2017年12月31日までに本件はRIに提出されることとご理解下さい。
小船井 修一 会員
説明の前に、昨年度の6月30日付をもって、決議案2件を提出させて頂いております。決議案に関しましては、2016年の規定審議会でインターネットを通して毎年の審議になりました。そういう意味では決議案と今日、皆さまにご説明させて頂く制定案に関しましては、2つに分かれ、制定案は2019年4月シカゴで規定審議会が開催される予定になっています。その中で私は、地区の立法案検討委員会委員長として、尚且つ34地区の規定審議会の代表議員の世話人の事務局長として東京で会合を重ねております。今回第2500地区からも制定案を2つ提出させていただくことをお許し下さい。説明させていただきますが、ひとつは制定案の一部案、国際ロータリー定款・試験プロジェクト条項を削除する件とです。定款は皆さんご存じだと思います。国際ロータリー定款、国際ロータリー細則、そして標準ロータリークラブ定款の3つの組織規定の中で一番重要なものが国際ロータリー定款であり、規定審議会において3分の2以上の賛成を得ないと採択されないものです。そういう中で、これは第5条の会員部分に関しての第4節 例外規定というのがあります。これは2001年。今から16年前に規定審議会で決議された標準ロータリークラブ定款に違反するクラブ運営を許す件ということです。そういう意味でいくと2016年の規定審議会で柔軟性の導入という形で例外規定が正式に導入されましたので、この例外規定は必要ないであろうというということで上程させて頂くことにしました。制定案2番 国際ロータリー細則 ガバナーノミニーの資格要件を改訂する件です。ガバナーは唯一地区を代表する国際ロータリーの役員です。その方たちの資格は、今までは1年間クラブ会長を経験した人となっています。それに加えて、私としては「ガバナー補佐等の地区運営経験を持ち・・・」と下に書いてあるものが追加される文言であります。本当に少ししか入れておりません。重要な点はガバナーが地区のこと知らなければ運営できないということ。地区のことを知らない方がクラブ会長の資格のみでガバナーに就くことに違和感があり改定案を出させて頂きました。
ご審議お願い致します。
議長 邵 龍珍 会長
ご意見・ご質問等を承ります。(質疑無し)

拍手を持って採決致します。(全会一致)
本制定案案2件について、釧路RCとして議案提出致します。
会長の時間
会長挨拶 邵 龍珍 会長
本日は職業奉仕委員会の担当で、今年度初の移動例会・職場訪問例会となっております。朝早くから委員会の皆様に準備等でご足労賜り本当にありがとうございます。また、この場をご提供、ご協力賜りました木下直前会長に心から感謝とお礼を申し上げます。今月9月は『基本的教育と識字率向上の月間』になっております。私もロータリーの友を読んで分かったのですが『ロータリーの友月間』も9月だそうです。そこで少し調べたところ、我々が毎月購読しているロータリーの友の創刊は1953年1月だそうです。その半年前の1952年7月に日本が東西2つの地区に分かれるということで、今まで同じ活動をしていた仲間が両地区に分かれました。そういった中でお互い情報交換し、コミュニケーションを取ろうと当時のロータリーアンの熱い思いがロータリーの友発刊に繋がったということが記されておりました。また、31の世界地区でこういった雑誌があり、その国々の言語で発刊されています。また『ザ・ロータリーアン』という雑誌もあるそうです。お気付きかと思いますが、ロータリーの友の表紙が今年度からイラストに変わったそうです。今年度7月はRI会長の顔写真でしたが、8月、9月号はイラストになっておりました。また、先輩ロータリーアン達は多分理由は分かっていると思いますが、ロータリーの友は左見開きにすると横書きになっております。右見開きから始まる表紙は縦書きになっているのですが、これは、昔は全部横書きでしたが、日本の俳壇・歌壇など日本人ロータリーアンが投稿するのが縦書きの不向きとされ、日本のロータリーアンの投稿活動を掲載するツールとして、右開きの縦文字があります。ザ・ロータリーアンの抜粋記事、そしてRIの現状や世界のロータリーアン活動掲載に関しては左見開きの横書きだと覚えていただければ、楽しく読めるのではないのかと思います。最後に、ロータリーの友では記事の掲載を大募集しているそうです。我々の素晴らしい活動、また一般の皆さんとの合同事業においてロータリーのロゴが入ったTシャツ、帽子、横断幕、旗等々がハッキリと写っている写真が必要だそうです。それに記事を添えてWEB上ですぐ投稿できるそうです。規定があるそうですが、それをクリアすればロータリーの友に掲載されるということでございます。我々が2年後、吉田潤司ガバナーを輩出するクラブとして、またこの地区として、そういうツールを活用してロータリーの公共的イメージの向上・認知度の向上に少しでもお役に立てればというところでございます。そういった思いをお話させていただいて、本日の会長挨拶に代えさせていただきます。
本日のプログラム
鳥取神社訪問・見学例会(移動例会)
職業奉仕委員会 中村 孝源 委員長
本日はパスト会長である木下会員のご厚意を賜り、鳥取神社の訪問見学例会を開催させていただきます。釧路RCといえば歴史と伝統だと思います。その釧路の歴史と伝統を代表するものというと鳥取神社ではなかろうかと思い、このような機会を設けさせて頂きました。鳥取神社の美しい建物、日頃見ることができない重要な文化財をご案内していただき、鳥取地域の歴史や神社を知ることによって、いろんな歴史と伝統の意義を知ることができると思っております。それを持ち帰り、それぞれの職場で職業奉仕の中で、その歴史と伝統の意義を活かす。そしてこの釧路や釧路クラブの更なる歴史・伝統に繋げていくことができればと思っております。本日はよろしくお願いいたします。
木下 正明 直前会長
わざわざ沢山の皆さんにいらっしゃって頂き恐縮です。まず鳥取地域ができた移住の歴史を15分位お話して、その後、鳥取の池田家からいただきました宝物などを収蔵している百年記念館で、池田家の家宝重要文化財クラス17点と武士の方が移住されたのですが、その方々がお持ちになったもの、生活用品が主ですがそれを含めて見学いただきます。あと、開拓80周年の時に、石破茂さんのお父さんが鳥取県の知事をされていましたので、その縁で80周年の記念事業の時に、石破さんのお父さんが石を鳥取から運んで下さいました。それに、亡くなられた町村議長さんのお父さまが揮毫した碑が当社に2つあります。それを見ていただきます。10年に1回出す300〜400人で担ぐ大神輿も見られるようになっています。ご存じかと思いますがこの地域は鳥取という地名です。鳥取県の方が旅行で来られると非常にビックリされて、「珍しい」とこの神社に寄られたりします。まず、鳥取県の鳥取藩というのはどういう藩だったかというと、32万5千石のかなり大きい藩でした。今、浅川さんが調べてくださったのですが、全国で13番目の大きな藩ということで、結構大きな藩です。鳥取は江戸から離れていますので外様大名です。あまり徳川家と仲が良くない大名なのですが、実は、徳川家康の次女が嫁いでいる関係がありまして、非常に姻戚関係が深いということで、外様大名ながら「松平という性を名乗って良いですよ」ということと、葵の紋を下賜されて準親藩の大名の家格を持っていました。ところが、非常に大きい藩ですが、明治維新になりまして、士農工商が廃止され、藩が廃止され県になってしまいます。そうすると武士の方々は幕府からお給料を貰っていましたが、それが貰えなくなってしまいました。その代わりに金禄公債証書をいただいて、年金みたいなものを貰えるようなシステムになりました。しかし西南戦争でインフレになってしまい、要するに紙きれになってしまった。もともと武芸一筋の藩でしたので、経済的な自立というのは中々難しくて、農耕なんて馬鹿らしくてやっていられないというころもありました。平野が少なくて農耕の生産性が非常に低いところがありました。 一番ダメージが大きかったのが、明治9年に鳥取県は島根県に併合されてなくなっています。島根県になってしまって、大変になったのでいろんな運動して14年に再置をし、また鳥取県が復活するということになりました。話が飛びますけど、このロータリークラブの中にも鳥取県の士族の方が2名いらっしゃいます。都寿司の中村さんは移住者で、御殿医、藩のお医者さんをやっていた家系の方です。もう一人の佐藤尚彦さんは、葛城さんという移住者がいて、佐藤さんの曾祖母が葛城さんから嫁がれたことで移住者になっております。私もこっちに来て歴史を勉強するまで全く知らなかったのですが、他にも一度なくなっている県が徳島、福井、富山。こんな立派な県が1回なくなっています。トピックなのですが、逆に明治15年に北海道は札幌県・函館県・根室県に分かれて3つの県になっていたこと。ここは、根室県釧路国ということになります。島根県になってしまった関係で食いっぱぐれた武士は、元は県の要職を占めていました。県が島根県に統合されてしまうとその職も失ってしまうことで、本当に食うに困ったのです。資料の中に「三食に事欠く者が何千戸」とか、餓死する人がたくさん出て毎日のように「鳥取県士族が餓死した」という記事が出ているほど大変だったそうです。当時の役人はよく考えまして、北海道に移住しようと移住士族取扱規則を作りまして、明治15年に政府で北海道の三県、さっきの札幌・函館・根室県に移住先がないかと依頼をしました。16年に根室県が同規則を布達したことで「農業で移住するには釧路国と北見国や岩見沢などは大丈夫です」と発布されました。それで移住が開始されました。北方警備で屯田兵制度は皆さんご存じだと思います。士族移住法というのは屯田兵制度の前の制度で、2年間しか給料が出ないという制度です。ですから作物が取れないと悲惨なことになる制度でした。8県しか制度は適用されなくて、その第1回、2回がこの釧路です。この鳥取村なのです。ここに来た人はすごく苦労したことになります。そういう制度ができて、移住しようと。二度と鳥取県の地には帰れないということで涙ながらに出港したのです。ここが鳥取駅です。見づらいのですが鳥取駅で千代川が流れています。ここが「かろいち」といって商業施設、観光名所になっています。水産物や水槽があるところです。「かろいち」に行く手前に碑があり、ここから北海道開拓移民団出港の地と書いてあります。ここに、鰐淵さんや津坂さんという市議会委員などの署名があると思います。こっちの字が津坂さんで、これは鰐淵さんと当時の向こうの市長さんの署名があると思います。「涙ながらにかろの港から出向した」と祝詞にも出ています。上陸した図です。
明治17年6月3日に出て、函館経由で6月9日に上陸しています。毎年6月9日は、移住した苦労を偲ぶ報恩慰霊大祭をやっています。毎月9日には、外にある碑の前で踊りを奉納したりなど、今まで127年間脈々と続けています。この時、とんけしの浜に上陸して、その時、お出迎えしたのが張江豊吉さん。釧路村の総代さんでたぶん張江さんのご親戚の方だと思います。アイヌの方がここに出ていますが、アイヌの方が三菱の大きなある程度の船でこちらに来られて、小さい船で渡して、浜が近くなって水深が浅くなった所でアイヌの方がおんぶしてくれたと記録に残っています。これが入植した土地です。1番から5番組という方々です。最初の移住者と明治17年に5番組まで入植して、その後、明治18年に6番組から11番組まで入植しました。この辺が幣舞橋で、ここに釧路駅があります。駅裏からずっと大曲で、これが鳥取神社です。ここから1番組、2番組、3番組でここのあたりで5番組まで最初に入植しました。そのあとはここから6番、7番、8番〜10番と奥の方へ向かって入植をしています。佐藤さんが2番組で葛城さんなので大曲のあたりですね。今と変わらないところにお住まいで。中村さんは5番組なのでこのあたりに都寿司・中村さんのルーツがあります。当時の移住した絵の写真ですが、バラックで窓は和紙でした。白川郷なんか見ていると、意外と和紙の方が寒さを防いで湿気を外に出すので良いらしいです。紙の窓で、木の板1枚のバラックという形です。少し見づらいですが、北大が所蔵しているのですがここが家です。家が点々とあるのですが、だいたい1qあたりに1軒ずつ家が建った形になります。1人あたり10,000平方メートルの土地を貰ったということです。移住は大変苦労したのですがさすが武士の方です。移住した時に最初に作ったのが学校で、鳥取小学校になります。明治17年から18年に移住してすぐ明治19年10月には公立第一・第二簡易教育所が開設されています。20年5月13日に名前が鳥取簡易小学校に変わったので、鳥取小学校ではこの日を開校記念日にしています。実際には1年前からですね。今年は130周年の式典を10月21日に行います。これは、第二鳥取簡易小学校で、これは山花小中学校です。山花小中学校が同じ時にできています。 教育が一番大事だとさすが当時の方は考えていました。開拓の苦労で本当に大変なので報恩会という会を結成して、皆で助け合おうと。境内にこういうお堂があって鳥取小学校の奉安殿を少し直して柵を作ってこの中が歴代の藩主です。こちらに写真がたくさんあるのですが、池田家の歴代藩主のご真影と明治天皇のご真影がこの中に安置されています。これを中心に、毎年6月9日に報恩の慰霊大祭をやって祖先を偲びながら皆で力を合わせて頑張っていこうと脈々と127年続けております。これが私の若い頃で32〜33歳だと思います。そのあとやっと鳥取神社ができました。社殿の真裏に回ると分かりますが、2m50cmくらいの高さの最初の社殿です。もともと、今の日本製紙の中にこれが建っていました。日本製紙が進出してくるということで、川に近いのであまりいい土地ではないので神社がこちらに移って、日本製紙があそこに来られたということです。時代が流れて、大正・昭和の鳥取地区です。以前いらっしゃった羽生パスト会長さんのお宅がこのあたりです。これが鳥取橋で、今、鳥取神社から鳥取橋に行く感じです。ここら辺に三ツ輪のスタンドがあって、こっちに日本製紙があるという感じでしょうか。郵便局がこの三ツ輪スタンドがあるところにビックハウスの横にあり、村役場もそこにありました。少し珍しいのは愛国飛行場が昭和13年に愛国にできています。これ、愛国と書いてあるので戦争のために作った飛行場と思われますが、実は、違って愛国逓信基金といって、郵便局の積み立て基金みたいのがあって、お金がいろんな地域に地域発展のために渡される訳です。それで飛行場を作ったということです。亡くなられた矢澤会員が「子どものころ、おばあちゃんに背負われて飛行機を見に行った」と思い出を語っていらしたのが思い出深いです。だんだん街ができてきまして、釧路市と鳥取町が昭和24年10月10日に対等合併しました。鳥取村の人はみんな反対しましたが、釧路新聞さんとかうちの先々代の宮司が「釧路発展のためには一緒にならないといけない」と進めてこうなりました。ここが切れて申し訳ないですが、もともと釧路がこんな感じですね。大楽毛と新富士は海岸沿いの鉄道沿いのところが旧釧路市です。鳥取村がその奥の移住した人が住んでいるのは地図のこんな感じです。合併した時は、釧路市が7万人、鳥取町が1万3,000人位で合併しています。合併の碑もビックハウス横の三ツ輪商会さんのスタンド裏にまだ残っています。
開拓80周年の時に当社の中に碑を建てました。当時、神社の中に建ててもいい時代だったと思います。この大きな石です、なんとか石と言うのですが不勉強で。すごく高価な石らしくて、輸送費で1億何千万円かかるというのを石破さんがタダで持って来てくれました。石を割る・砕くというお宅なので石に関係するご職業だったのではないかと思います。当然、二郎さんも来られました。字は町村さんの書です。あとで実物を見ていただいた方がいいのかなと思います。移住の碑が市内にいっぱい建っております。これは石破さんのお父さんが石をくださって自分で揮毫しています。「ここを中心に東と西にかけて移住しました」という鳥取大通8丁目か9丁目の交番の道路向いですね。リラブとミスタードーナツがある所の向いの国道沿いにあります。このあと皆さんに見学してもらうのは、移住100年の時で昭和59年にお城ができました。暗くて見づらいですが、池田家からいただいた宝物です。そのようなものが重要文化財クラス17点を含む1,500点くらいを1階に展示しております。市内の小学4年生はほとんど全ての学校が社会見学でここに来られます。お城の天守閣の2階には移住した時に持ってきたものがありますので、皆さんご覧いただければと思います。鳥取地域に伝承されている郷土芸能がいくつかあって、何回か例会で披露していますが麒麟児獅子舞が昭和16年に鳥取県からこちらに伝わってきて今まで70何年間継承しております。これは傘踊りといいまして、これも鳥取県から昭和38年に伝わって、いまだにこの地域で踊り継がれていて60年くらいの歴史があります。もうひとつ、鳥取町と釧路市が合併しました。面積は鳥取が3倍ありましたので4倍になって、人口推移を見ていただくと分かりますが、釧路市側が多かったのですが、平成5〜6年に逆転しまして今は鳥取の方がだいたい10万人です。新富士と大楽毛を入れないで10万人です。釧路側が今だいたい7万3,000人位ですかね。昭和24年の合併時と同じような人口の比率。これくらいまで落ちているということで、人口が逆転している状態になっています。鳥取県の方が苦労して開拓してくれたおかげで、この人口10万人の街ができたということは誇らしいし、それについて我々も語り継いで守っていかなくちゃいけないかなと思っております。鳥取県鳥取市の今の人口が12万人位なので、「鳥取が2つに分裂して増えたのだ」と鳥取の方は仰っているようです。鳥取市といろんな交流をしていますが、そろそろ時間になりました。この後、宝物と移住したものについてご覧いただければと思います。
【社内・百年記念館 見学】
会長謝辞 邵 龍珍 会長
素晴らしい歴史の品物を見させて頂き、刀も持たせて頂きました。田中さんに渡して田中さんの先が僕の方に来て、ちょっと怖かったですけどすごい重量があって感動しました。保存などは大変だと思いますが、末永くこの釧路の歴史ということで保存していただいて、皆さんに見せていただければと思います。本日は誠にありがとうございました。
その他の報告
ニコニコ献金
お名前(敬称略)内     容
  
  
今年度累計 143,000円