釧路ロータリークラブ 国際ロータリー第2500地区 Rotary Club of Kushiro
通 算
3469
2017-2018年度
09回 例会報告
2017年09月07日
例 会 内 容
財団奨学生について
お客様紹介
元日本銀行釧路支店支店長、現在は中央大学政策文化総合研究所客員研究員 島村 高嘉 様
島村 高嘉 様
私は清水先生に紹介を受け、釧路ロータリーに39年前入会致しました。釧路を懐かしく思い、今年も2か月の長期滞在を妻と楽しんでおります。大いにエンジョイしてます。いつも釧路の霧笛が聞きたいと思いノスタルジアに浸っております。今年は、ミサイルが釧路上空を飛んで携帯音が代わりに鳴りました。とんでもない事でしたが私にとっては第2の故郷で釧路が忘れられません。日本銀行釧路支店の現在の支店長は森さんです。若きエースです。私は日銀釧路支店の14代目支店長です。森支店長は41代目だそうです。日銀釧路支店は昭和27年戦後間もなく設立されました。。当時は、一萬田総裁がこちらの方の情熱に負けて「よし、釧路に日銀を」ということでオッケーしたそうで、時の立役者が両角克治さん、釧路新聞の片山さん、栗林定四郎さん達の情熱で誘致された訳です。私も人生のプライムタイムを釧路で過ごさせて頂きました。今日もまた皆さんの元気なお顔を見て、ひと時を過ごすことができることを大変光栄に存じます。
米山功労者感謝状の贈呈
吉田 潤司 ガバナーノミニー
会長の時間
会長挨拶 邵 龍珍 会長
RIについてお話します。8月初頭「My Rotary」に2018〜2019年度RI会長エレクト決定とありました。決定時期が異なるので気になり熟読すると、サム・F・オオリ氏(ウガンダ)エレクト、38年間ウガンダのロータリークラブに在籍され、9つだったロータリークラブを89クラブの増加させた大変温厚で腰が低く皆に愛された方だそうです。予定していた手術を終え、次年度に備えていたところ合併症によって7月13日エレクト年度に他界されました。訃報を受けて会長指名委員会17名でエレクト、ノミニーを選考したということです。現エレクトはバハマ出身のバリー・ラシン氏です。ご自身の医療機関の顧問職です。彼はロータリーの公共的イメージの向上を発信するデジタルツールを強化・推進に尽力するそうです。ノミニーはアメリカアラバマ州のマーク・ダニエル・マロニー氏、弁護士法人の代表です。吉田かバナー年度はアメリカの方がRI会長だと記憶して下さい。ロータリーで頑張るといっても健康でなければ思いは達成出来ません。健康に留意され今後の活動に励んで頂ければと思います。
本日のプログラム
財団奨学生について
趣旨説明
ロータリー財団寄付推進委員会 白幡 博 委員長
本日は私たちの仲間である佐藤会員にご講演頂きます。最近はロータリー財団について理解を深めていることと思います。今年度会長はより深く財団への理解を求めています。吉田ガバナー年度には、会員全てがポールハリスフェロー授与者を目指したいと考えています。
 当委員会はそれに沿って活動しています。ロータリー財団のお金の使い道は多岐に渡ります。釧路RCが活用した事業としては昨年の数学検定事業や、海外に向けた貯水タンク、浄水器、手洗い場の設置など国際奉仕事業へも取り組んでます。
 本日は佐藤会員が、高校2年生の時にロータリー財団の資金を活用してオーストラリアへ交換留学生として派遣された 経験をお話頂きたく、また会員皆様に知って頂きたく企画致しました。よろしくお願い致します。
佐藤 貴之 副幹事
なぜ私がここにいる疑問だと思います。私はロータリークラブの奨学金で、高校の時に交換留学を致しました。ロータリー財団の留学生として、なるべくそのことは伏せておりました。 本日は山本会員のご協力を賜り、写真を交えながら発表をさせて頂きます。
留学の概要ということでは、時期は今から24年前1994年(平成6年)3月から95年の3月まで1年間行っておりました。高校1年生が終わって2年生に上がる時に留学しております。志望動機は、格好良く言えば外国の文化に憧れており、特にハリウッド映画を好みアメリカが好きというのが本意でした。ただ、私が行く2年前、服部さんという方がちょうど留学中のハロウィンパーティーの時に銃で撃たれたという事件があってから全体的にアメリカ留学を控える傾向にありました。当時はカナダやオーストラリアが主流の時代でした。在校は釧路北高校、今の明輝高校です。スポンサークラブは釧路西RCでした。西RCの方に「何で西に入会しないの?」と言われています。わだかまり、確執は一切ございません。因みに今年度西RC幹事が私の中学生の同級生です。お世話になったホストクラブは第9820地区サマービルRCです。サマービルRCはオーストラリア南部にある地区です。主要都市は1時間程度にメルボルンがあります。サマービル、タイアブという2つあったロータリークラブがひとつになって、合同でやっているようです。20名程度の会員しかいないロータリークラブでした。こちらが当時のロータリーフラッグです。オーストラリアは6つの州からなっており、この辺りにメルボルンがあります。ちょうどこの辺にサマービルがありました。私は5つのホストファミリーにお世話になりました。ソレントという本当に端にあるのですが、ここは学校に通うのにスクールバスで2時間かかっておりました。そこが一番大変だったという思い出があります。彼女が私の交換相手のアニヤ・シビッキさんです。日本は4月が年度年度替わりですが、向こうは9月が年度替わりということで、彼女は私が行く前の9月に既に来ていました。私が留学するということで私のクラスに入っており、同じ年で半年くらい一緒に釧路の学校で生活しておりました。留学するにあたり、当時の鰐淵市長に表敬訪問させていただいております。隣にいる彼女は帰ってきた方で木幡さんという方です。北陽高校を卒業して札幌の短大に決まってから、短大を休学して1年間留学している方でした。木幡さんのお父様は西RCの会員さんでした。当時の道新と釧新に大々的に載せていただいています。見てわかると思います。当時、私のジャケットはすごくシンプルな感じで、隣の木幡さんはいろいろジャラジャラしています。こちらにあるジャケットですが、私も帰ってきてからいろんな留学生と交換したり、当時、行った場所などでワッペンを付けていただいたりしました。こちらが当時の2500地区のカラーでした。ブルーっぽい薄いブルーがカラーということで、ここに2500地区のマークもちゃんと入っています。「留学したら、皆は10s以上太って来るのだよ」ということで二回りくらい大きいサイズのジャケットを作っていただきました。いよいよ留学するわけですが、こちらがメルボルンの空港に着いての写真です。真ん中におられる方がホストクラブの会長です。右側の方がガバナーです。こちらの方たちが、最初のホストファミリーの方たちで、「イギリスからの移民で20年前に来た」と話をしておられました。私はこの方にビリヤードや、イギリスのビートルズなどを教えてもらいました。この写真がそのまま現地の新聞に載ったときのものです。私、少し変な顔していますが、飛行機酔いしておりまして、飛行機の中で何回か吐いておりました。少し戻って見ます。この千歳空港からオーストラリアへ行くのに、ここにケアンズ国際空港です。行った方は分かると思います。ここで国際線から国内線に乗り継いでブリスベン、それからメルボルンを経由して結構長い時間飛行機に乗りました。海外へ行くのも初めてでしたし、もちろん迎えに来ていただいていましたが、1人で行かされるわけで、そういう形ですごく怖いと言ったら言葉に語弊があるかもしれませんが、本当に日本語を喋れる人は国際空港でも誰もいません。ここに日の丸が付いています。これは、西クラブの方の助言で「日の丸を付けたジャケットを着ていたら何か助けてくれるから」と言われ、これを着ていると日本代表にでもなったような感じでした。ケアンズの国際空港でこのジャケットを着ていて、外人に「写真を撮ってもらえますか」と言って撮った写真です。ここから私の留学が始まります。 こちらは初めて行ったホストファミリーのお宅です。ここは離れになっていて、この奥に私の部屋です。バーやビリヤード台は、ロータリーアンのお宅には大体ありました。こちらは、私の借りた部屋がホストシスターのひとつ下の女の子の部屋ですが、絨毯がありほとんど日本と変わらないお部屋でしたが、イケメンに囲まれてしばらく過ごしておりました。 全員で37名いる第9820地区にいる交換留学生です。14ヶ国の留学生が来ておりました。
毎年これくらいの数の留学生をこの地区では受け入れていて、本当に多くの留学生が来ておりました。ただ、日本人がこの中でも一番多くて、この辺に女の子がいて7名の日本人留学生がおりました。次に多いのがカナダとアメリカで4名ずつです。日本は交換留学を頻繁にやっているのだなと思っていました。ただ、日本人は本当に英語が喋れないと痛感しました。皆はインド、フランス、ドイツから来ています。英語圏じゃない所から来ている人でも、ペラペラ喋ります。皆、同じ歳で高校生です。「なんで、そんなに英語を喋れるの」と聞いたら「学校で習ったじゃない。学校で習っていないの?」と逆に聞かれて、日本の英語だとなかなか世の中で生活していけない、通用しないと痛感させられた時期でした。 北高校からなぜ私が選ばれたか。当時留学しませんかという募集があり、北高校でも20名ほど応募がありました。私はそんなに成績が良いとか、優秀な生徒ではなかったのです。当時の教頭先生の答えが「男子だから」ということで北高校から私が選ばれました。見ていただければ分かると思います。みんな女の子なのです。ここに来る奨学生もそうですが、女の子が多いと思います。日本人で留学する男子というのは珍しいと、いろんな方から聞いておりました。こちらは、25日間かけてオーストラリアを留学生同士で旅行するというツアーに参加したときの集合写真です。こちらは、全額ロータリークラブで賄っていただいております。これもロータリー財団のお金から出ているのではないかと思います。こちらがロータリーアンの方で、私たちの25日間をサポートしていただいた方達です。いろんな場所で集合写真を撮って、定期的にこういう感じでいろんな都市を回って行きます。オーストラリアのメルボルンから出発しまして、海外線のアデレードを通って、ここにエアーズロックという世界最大の一枚岩「世界の中心で愛を叫ぶ」は皆さんご存じかと思います。ここを最終目標として25日間旅行しておりました。同じ道を戻って帰ってくるというツアーです。 最終のアボリジニという原住民のところ。オーストリアは食べ物が美味しい、海が青い、緑が多い、カンガルーがいる、コアラがいるというイメージあるかと思います。内陸に行けば行くほどこのように砂漠化しています。葉っぱが枯れていたり、土が赤土だったり、国土が乾いているというのが私の感じたオーストラリアでした。コアラも全然いないですし、いまは保護されていて抱っこできないのです。カンガルーもその辺にいるかといったら、動物園にしかいないような感じです。
釧路でシカやキツネに会う確率の方が高いのではという感じで、イメージしていたオーストラリアとは違った感じを覚えています。こちら原住民のアボリジニです。今でもこんな格好をしているかといったら、決してそうではありません。完全に衣装として、旅行者向けにこういう格好をして迎え入れてくれるという形になっています。アボリジニの街にも行ったのですが、皆さんは現在普通の格好をして普通に生活しております。これは、世界最大の一枚岩"エアーズロック"です。翌日の朝から皆さんで登るというのですが、登山とは違って岩なのです。木があるわけでなく、砂場があるわけではない。見たら分かるのですが、すごく急な所を登らされたイメージが強いですが、みんなで登っておりました。これが頂上の石碑になっています。また集合写真を撮ってこのツアーを終了。これが皆で乗っていたバスです。バス1台で25日間旅行をしておりました。これは私のカウンセラーですが、ツアーから帰ってきていきなり「カウンセラーのパーティーがあるから来い」と呼ばれて行きました。彼は当時40歳で、現在の私と同じ歳です。「外人はやけに大人に見えるな。この人はいくつなのだろう」と感じておりました。同じ高校生でも本当に大人に見えるような子ばかりでした。こちらの隣にいる子が私のひとつ下で、先ほどのイケメンばかりの部屋を提供してくれた子です。こちらがひとつ年下のカウンセラーの娘さんです。こちら、8月末で年度末の学校風景です。 日本と違って最後の日は、生徒の皆でお菓子やジュース持ち寄って、本当は授業しないといけないですが、こうやって「最後だからパーティーをしよう」と先生もそれにのっちゃうのです。日本とは全然違うなと感じておりました。こちら日本人っぽく見えますが、香港から来ている方です。現在の中国のように、これから発展するという時期で、メルボルンにいる中国の方はたいてい香港から来ていました。メルボルンにいるときはチャイナタウンとか、中国の文化なども入っていて、私はご飯や日本食が好きだったので、オーストラリアの肉ばかりの食生活に飽きた時は、チャイナタウンで体を癒やしていたという記憶がございます。こちら、先ほどお伝えした通学に2時間かかるお宅です。この方たちはロータリーアンではなく、学校の紹介でホストファミリーになっていただいた方たちです。真ん中にいる子が私の同じクラスにいた女の子です。女の子の家に留学させていただいておりました。ちょうどタイミングよく誕生会があって、すごく大きくて美味しそうなケーキに見えます。向こうのケーキはジャリジャリの、生クリームが全く美味しくなくて、スポンジもスカスカ。なんとなく想像できますよね。本当に飾りみたいなケーキを皆で「美味しい、美味しい」と言って食べるのです。それが向こうの味なのかなと感じておりました。季節は12月17日、向こうはクリスマスになると、南半球なので夏と冬が全く逆です。メルボルンは冬、夏になると30度を超えて35〜36度。当時、釧路から行って非常に苦しい思いをしました。暑い時にクリスマスツリーを飾るというのは違和感があって、私も手伝って飾り付けなどした記憶があります。サンタクロースはサーフボードに乗って来るというのがオーストラリアのサンタクロースでした。クリスマスの飾り付けで、私はここに日本っぽい花、ここに弟子屈と書いた提灯を置きました。こちらがクリスマスの模様です。日本だとクリスマスイブがクリスマスという感じで、25日なったら一気にお正月モードに入っていきます。向こうは日本の正月のようにクリスマスを親戚や兄弟が帰省して来たり、おじいちゃん、おばあちゃんが来たり。もちろんサンタクロースもいて、クリスマスプレゼントもあります。盛大に親族でお祝いするというのがクリスマスでした。こういう感じで、定番の外国のような七面鳥があったり、料理を私も手伝ったりしました。
私の父はロータリーアンではないですが、私の家族にも頑張ってメルボルンまで来てもらいました。これが最後の5番目のホストファミリーのお宅です。まわりが木に囲まれて田舎なのかなと思いきや、大都市のど真ん中にあるお宅です。これは私の部屋から撮りました。大体離れがあるのですが、こちらの写真がこういう感じで向こうのロータリーアンの方は立派な家に住んでいるなと、当時はロータリークラブを知りませんでしたので痛感しておりました。いつものように、私は、ビリヤードで毎日を過ごしておりました。こちらは、交換留学したアニヤが9月に帰って来ておりまして、無事再会を果たしたということで写真を撮っています。向こうは先ほどのサファリツアーもあったのですが、2泊3日、3泊4日と週末に留学生だけで集まるキャンプが頻繁にありました。そこで彼女と無事再会しております。彼女、この時には日本語がベラベラになっていまして、日本語で話をさせていただいておりました。こちら、先ほどの留学生とは入れ替わっています。年度が替わっていますので新しく来た留学生とオーストラリアに帰って来たオーストラリアの留学生と一緒に写真を撮っています。日本人だけはまだ残っておりました。私も英語が分かってきていたので、この時ロータリーアンの方が「日本語が喋れない。日本人はみんなと会話ができないからできるだけフレンドリーに、できるだけ話しかけるように」と事前に言っていたそうです。私たちも、この後すぐに帰国します。次の日本人を迎えいれる準備をこの時にしておりました。すごく衝撃的な感じで、やっぱり留学するには勉強しなきゃいけないのだなと感じた時でありました。これは、私の最後の例会の時の写真です。私は、髪の毛を伸ばしていました。この時、チョンマゲ・サムライというあだ名で、学校やロータリーアンの方にも言われていました。左側にいる方が新しくなった会長です。最後に握手して帰国してきました。帰国後、またこのジャケットを来て表敬訪問させていただきました。この時の留学が私で最後になっております。私の後からは留学生がいないということで、少し寂しい思いをしておりました。帰ってきて学校は、2年生に復帰しております。今まで一緒だった人たちは3年生になっている。下の学年の生徒と一緒に学校生活を学んだという形になっております。「オーストラリアでも学校を行っていたので3年生からでもいいのだよ」とお話しはされましたが、当時、進学希望ということで、「このまま行ったら勉強ついていけないだろう」というのが当時の教頭先生のお話しです。学年1個下になっても良いかなと。よく留年と言われますが決して留年ではなく、止まっていただけなので、学力的には留年したのかなと思ってやっていました。こちら、先日のベイロータリー周年の時に、青田さんに紹介していただきまして再会しました私のカウンセラーで西クラブの石川さんです。この笑顔を見ればおわかりのとおり、何のわだかまりや確執もありません。これで私の留学報告を終了させていただきたいと思います。この後高校に戻ってきてからアイスホッケーを小中高とやっていたので、その後は無事に関西大学に推薦が決まっておりました。周りからは「すごいな、これからどんどんいくのだな」と話されていました。見事、3年生の時に停学になりました。言わなくてもいい話なのですが、当時、「停学になったら推薦は取り消し」という学校の規則がありまして、高校3年生の何も勉強していない時にお先が真っ暗になりました。「こいつはもう駄目だな」みたいなどん底から、調理士になって今、無事に独立してロータリーに戻ってきたというのが私の今現在の状況でございます。ロータリークラブに戻って来られたのは本当に奇跡かなという思いもあります。一生懸命頑張っています。ご静聴ありがとうございました。
会長謝辞 邵 龍珍 会長
 佐藤君が、あんなに尖っていたとは信じられないですが。そういう方が留学に行って、社会に揉まれてロータリアンとなる。ご縁を感じます。当クラブも十数年前はこの事業やっていました。国際交換留学生もやっていましたし、米山奨学生も迎え入れていました。タット君というアメリカの男の子が最後だと記憶しております。特に、長期3年間というのは、ずっとホストファミリーしないといけないので、それは長くて厳しいし、迎え入れる学校の協力が必要です。当時はどこか高校があったと思いますが、学校も見つけないといけない、ということで学校との間の調整も大変難しいと、ハードルが高いのですが、ハードルが低いのは、米山奨学生を迎え入れる。これはホームステイが必要ないです。カウンセラーだけ置けばいいということで、第2500地区でも旭川・北見・帯広で活発に行われています。これもまだ釧路地区・分区ではまだ行われていないことが最近の感じです。この10年間やっていません。何かひとつのきっかけを作り、始められればと思います。吉田ガバナーを輩出するクラブとして、皆さんの協力と理解を得ながら、ひとつひとつクリアしていかなければと思いながら、今日の話を聞かせていただきました。佐藤君、本当にありがとうございました。
その他の報告
ニコニコ献金
お名前(敬称略)内     容
邵 龍珍新年度からやっと3か月目に入りました。今後もよろしくお願い致します。
高橋 徹次長女が結婚致しました。
今年度累計 143,000円