2005〜2006年度 第26回(通算2914回) 例会報告
2006.01.17
会長 石田 博司   幹事 武石 光樹   広報・会報委員長  五明正吉
会長の時間
会 長  石 田 博 司 君
                          

また大相撲が始まりました。私は相撲が割と好きでありますが、心優しき民族主義者でありますから、横綱と大関が外国人だからといっても気になる訳では無いのです。というのは、もし我が同胞が他の国でそこの国の文化に関わるような仕事をする時にどうか受け入れて欲しいという願いがあるものですから、朝青龍なり琴欧州が外国人として活躍しているのを見ても別にそうは気にならないという意味の心優しき民族主義者という意味なのです。その朝青龍が昨年九州場所の前なのですけれども、週刊誌の対談で言っておりました。結果として琴欧州は大関になったのですが、大関になる前の琴欧州を評して「組んだときに分かる」と。「組んで見るとあいつは堅いから、これではまだまだだと思った」という事を言っておりましたけれども、その事に望んで堅くならずにやれるという事が極意の一つであるのかと物の本を読んで私は思うのです。山岡鉄舟と親交のあった清水次郎長が山岡鉄舟先生に「次郎長、お前随分けんかが強いのだけれども」、けんかというのはその当時ですから殴り合いではなく真剣を持った斬り合いのけんかなのですけれども、「随分お前はけんかが強いようだけれども、どのようなコツがあるのだ」と聞きましたら、清水次郎長が山岡鉄舟先生に言う訳です。「先生、それは簡単な事です。お互いに剣を向き合う時に、相手の剣に少しふれてみるのだ」と。つついてみる訳です。そうすると「相手の剣がそれをカチンと固くはねとばすようであれば、これは斬りにいったら相手を斬ることになってしまう。だけれども私の剣を相手の剣に合わせる時に向こうがすっと柔らかく受け流すとこれはかなわないから最初から逃げるのです。」という様な事を清水次郎長が言ったら、山岡鉄舟は「お前はたいした物だ、俺から免許皆伝をやろう」という事で免許皆伝をもらったという話があるのですけれども、これが事に望んで堅くならずにいられるという事の、ひとつの実例として自身も天才的な武闘家である、ある運動科学者が「イチローなり松井なりが本番でバッターボックスに立っている時は一般の方が仕事を終えて、家に帰ってご飯を食べてお風呂に入り、それからテレビを見ている時よりも、もっともっとリラックスしている」という事をいう人がいます。それほど本番で身体がゆるんでいる、リラックスしていないとあれほどのパフォーマンスはできないのだと言うことを言っております。あるいはまた先程の斬り合いに変わりますけれども、昔のいにしえの剣豪という人、天才と言われる人は、稽古の時はリラックスしていられますけれども、実際に真剣で斬り合うときにリラックスしている訳ですから、そうすると嫌でも精神的な面をきっと求めていたのだろうと思う訳です。ですから昔の宮本武蔵にしても、その天才剣豪と言われる人がどこか宗教家の様な側面が出てくる、イチローでもそうです。禅のお坊さんの様な雰囲気があるという様にスポーツ記者が言っていますけれども、おそらく極めて行くと、そのような精神性の高さが伴ってくるのではないだろうかと私は想像する訳です。ですから松井なり、イチローなりというのは、津波の被害があるとさっと寄付をして、しかもそれを別に決して自慢する訳でもない、その様にしたくなる精神性ができて来るのだろうという様に私は思うのです。そのことに望んで堅くならずにいる、堅くならないのであればバイアグラを使えばよいとその様な話の事に望んでではなく、事に望んでリラックスをしているという、その様な自分でありたいという様に思いまして、色々な本を読んでとりあえず私がしているのは、常に肩から力を抜いて生きてみたらどうかという事を実践していますけれども、そうしてみると私事で恐縮ですけれども、肩に力が入っている時よりは入っていない時の方が、何か事がスムーズに運ぶといいますか、全体像が見えるような気がするのは、錯覚かもしれませんけれどもその様な気がしております。事に望んで堅くならずにいる、俗に肩から力を抜くと言いますけれども、その様にして今後とも生きていきたいという様に考えております。ありがとうございました。

会長の時間
 1. 釧路西RC  1/16(月)   休  会 (振替)

 2. ガバナー月信   第8号  到  着

 3. I M 開催のご案内     到  着
 
会長の時間
戌年男おおいに語る」


  山 下 義 則  会 員

     大正11年生まれ

年男おおいに語るという事でお話させていただきます。本来であれば今日の年男おおいに語るという中に、私と同じ年に生まれているのが4人いたのですが、その中で福島先生が14、15年前にお亡くなりになっています。その次、高岡邦夫先生が2年くらい前にお亡くなりになりました。そしてTS電気の石井さんが退会されました。ですから大正11年で残ったのは私一人という事で、大変寂しい思いをしております。去年の初めまで最長老は阿寒バスの森口次郎さんがおいでになっていました。ですけれども亡くなりました。そのあと森口次郎さんは明治39年ですのでもう少しで100歳になるところでございました。その次の年寄りと言いますと一人残された人が、人生というのは分からないもので、いつどのようになるか分からないというのが現状ではないかと思います。高島暦が私のところに売っているものですから見ましたら、「戌年生まれの人は義理を守って正直で、人のために陰ひなた無く骨折り・・・」というように書いてあります。それが当たるかどうかは、当たるも八卦当たらぬも八卦という事になりますから、その辺のところにして欲しいと思います。

 私の親は石川県小松の出でございまして、小松の代で親は百姓をしていたはずです。叔父が野付牛今の北見に屯田兵としてきておりましたので、私の父親も叔父を頼って野付牛にきた訳です。北海道に渡ってきました。それで屯田兵ですから、ちょうど兵村4区、今の北見市三和町という様になっていますけれども、昔は兵村4区、兵の村の1区、2区、3区、4区とあったのでしょうけれども、その4区に叔父が住んでいたのです。そこに頼ってきて、その頃の百姓ですから田地田畑と言いますか水田を何丁かもらって、そして百姓をしたわけです。うちの親も百姓をしていた訳ですけれども、縁があって美幌に出まして商売を始めました。商売と言っても履き物の商売、今の靴屋さんともつかない、革靴はほんの少ししかなく、ゴム靴やカッパ、わら靴など、美幌の小学校あたりで、私はその美幌で生まれたものですから、美幌の小学校でも冬になると教室にわら靴を履いたまま入れるようになっていた訳です。その美幌を昭和6年に釧路に縁があって親と一緒に来た訳です。今の大川町のある少し奥の方、そこで靴屋を始めたのです。ちょうど昭和初めの大不況の頃ですので、北大通、その頃駅がもう正面にきていました。浜釧路ではなく正面にきていましたので、駅前通も結構空き家がありました。まだ南大通の1丁目から3、4丁目ぐらいまでは商店街で繁盛していた訳です。我々の同業者でも大正堂さんとかそれから須貝さんとか言ったところが南大通にありました。またこのクラブにもいました丸三橋本の橋本さんもあの並びで繁盛していた時代です。その不況のさなか、やはり5、6年は商売をしていた様ですけれども、その後商売をやめた訳です。私は昭和18年に徴兵検査を受けまして、ですから今の成人式を見ますと今は20歳で成人式をしますが、我々の頃は数え21歳で徴兵検査、ここの連帯司令部に仙波大佐という司令官がいて、その人が徴兵官になっている訳です。そしてその頃、16年に大東亜戦争が始まりましたから、手と足がついていれば甲種合格、「山下、甲種合格」と言われれば「はい、甲種合格」と復唱する訳です。その様な事で18年の6月頃に徴兵検査がありました。明くる年の3月10日に旭川の北部第3部隊歩兵27連隊です。今、自衛隊もここに27連隊という事できております。ですからこの連隊長にあって、私も「連隊長、私も27連隊ですよね」というと「あ、大先輩ですか」と言っておりましたけれども、先輩には間違いありません。位は違いますけれども。その様な事で19年の3月10日に旭川の27連隊に入った訳でございます。そしてもう戦争がたけなわになっていますから、月末に満州から谷口大尉というのが下士官、兵隊を100人くらい連れてきていた訳です。私達は2000名くらいいた訳です。その2000名をつれて満州に行ったわけです。青函連絡船で裏日本を通って、下関から釜山へ上陸しました。朝鮮を縦断して今の北朝鮮のところに大きな川があり、それを渡るともう満州なのですけれども、満州、広東省というところで兵舎がありまして、そこへ2000名が行った訳です。どんどん兵隊を徴集掛けているものですから、兵舎が間に合わないと言いますか、私達が行った兵舎は私はコンクリなり煉瓦なりで作った立派な兵舎を想像して行ったのですが、半地下、半分地下へ入ったような木造の兵舎だったのです。寒くは無いのですが兵舎はその様なあまり良い兵舎ではなかったです。そこで6月くらいまで教育を受けて、ウラジオストックの国境へ行きました。5大隊、ですから第2大隊5中隊、6中隊、7中隊、第2機関銃大隊、小隊と、約1000名。自衛隊、今は1000名で連隊になっていますけれども、私達の頃は1000名で大隊です。連隊には1大隊、2大隊、3大隊、連大砲とある訳ですけれども、私達は2大隊の5中隊にいました。それで2大隊だけがウラジオストックの国境へ塹壕を掘りに行った訳です。幕舎生活なのですけれども、幕舎と言ったら大きなテントでしているのかと思ったらそうではなく、自分達が携行している2メートル四方くらいの天幕をつなぎ合わせて、それを12枚くらいつないで12人の兵隊がそこに寝起きをする、食事などは厨房があってまた別にしている訳ですけれども、そこで塹壕堀りですが、今の白崎さんあたりがしている道路工事の掘削機、あの機械が1台あれば1個大隊分くらいができたのではないかというくらいです。三角スコップで起こすものですから、その割にはかがいかない訳です。その様な案配でそこに9月までいました。前の師団は大阪の向こう、姫路の第17師団、これがフィリピンのルソン島に行きました。ちょうど山下将軍がマッカーサーの再上陸に追い上げられて、ルソン島の山の中を戦っていた訳です。その様な状況でございました。まだあるのですけれども、この辺で私の任務を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。


 下 川 部 善 彦  会 員

     昭和21年生まれ
もう一人おられますので、持ち時間3分半くらいで、ですから尻切れトンボに終わる事があるかもしれないので、3分間でお願いします。おおいに語ると言いましても本来はこれからの事を語ればそれなりによろしいのでしょうけれども、先週還暦のお祝いで赤いマフラーを頂きましてありがとうございました。ですから少し過去の思い出話を、記憶に有ることをお話ししたいと思います。 ここに梁瀬さんの息子さんはおられませんけれども、最近新聞紙上をにぎわせて色々と活躍していますけれども、彼とこの間隣同士になったら土木屋さんだというのです。私は建築屋ですという事で、今は平成3年、ちょっとした青天の霹靂がありまして港の仕事をしておりますけれども、それまでは建築の仕事をしておりました。最近一級建築士が少し恥ずかしい行為で世の中をにぎわさせていますけれども、私共一級建築士の末席で20数年間、それで飯を食べていましたという事なのですけれども、43年に学校を出まして面接を受けました。どこを受けたかと言いますと今は無いのですけれども本州製紙、今は王子製紙になりましたけれども、本州製紙の不動産部というところがありまして、不動産と建築部門が主でありまして、田中角栄が日本改造列島論という本を出して世の中が盛んにそちらの方向に進んでいた時に大きな会社は大体その様なものを作っていたと、私も同じです。面接を受けていました。まだ22歳の時に「うわぁ、すごいなぁ。すごいお爺さんだなぁ」と思っていたら、今思い出して見ると一番年を取った方が58歳、それから55歳、あと何人かいましたがもっと若い。あっという間に私も60歳になりまして、その頃すごいお爺さんだと思ったら何の事はない、私もすごいお爺さんになったのかと思っているのですけれども、30数年前ですから、皆さんそれぞれまだ早いのではないかと、年齢と肉体とは少し違うのではないかと否定する方もおられるかもしれませんけれども、その様な事です。それでどの様な面接を受けたかと言いますと、「君は構造計算はどうだね」と言われました。それで後から思ったのですけれども紙会社ですから、工場ですから、デザインよりも構造計算ができなければ飯の種にならないと、ところが私は2つ単位を落としたのがありまして、1つは構造計算、1と2がありまして3年の時に2を落としました。それからドイツ語、これも3年の時に落としました。この2つを落としたのです。きちんと半年後には取りましたけれども、その様な事で1番苦手だったのが構造計算、しょうがないからなんと言ったかというと今でも覚えているのですけれども「ここに入らせて頂きましたら一生懸命構造の勉強をします」と、決して得意だとは言いませんでしたけれども、そのおかげでもう3年間くらいびっしり構造の勉強をさせされました。それで構造計算を覚えたなら海外にも行かせてあげるかという事で結果的に27歳の時、インドネシアに7ヶ月ほど行って建築の仕事をしてきたのですけれども、その様な事で構造計算をしてきました。話は変わるのですけれども、今釧路でも何年間かしてきまして、姉歯設計さんが構造を随分いい加減にしたと、私からすると信じられないのですけれども、今副市長さん3人いるのですけれども私とたいした年は違わない方、彼が建築課長をしていた時にまなぼっとの設計をしたのです。私とあるところと3カ所くらいのジョイントで、その時に予算が合わなくて、彼は何を言ったかと言いましたら「鉄骨をもう少し検討してみてくれないか」と言いました。だからと言ってマイナスと言いますか基準を下回る事をやれと言ったのではなく、やはり怖いですからプラス、プラスでしていくのです。1とプラスマイナス0、大体1.1とか1.2とか。逆に大きくしておく。鉄骨は壊れないのですけれども、揺れる訳です。できれば揺れない方がいい。超高層の場合は話が別ですけれども、有る程度は。そうすると揺れないと亀裂などは入らない訳ですから。亀裂が入る話と壊れる話は別です。その様に余裕を持っている訳です。分かっておりますので「もう少しぎりぎりまで」という話が思い出されます。時間がきたのでこれで終わります。


 田 中 武 司  会 員

   昭和33年生まれ
1分しかありませんのでたくさん話そうと思って考えてきたのですけれども、せっかくこの様な機会ですので一言私の職業に関係する話をしたいと思います。

 今年の展望ですけれども、1月もしくは4月に株価の高値を付けている、それから秋口に掛けまして一度押すのかと。押すタイミング、値幅ですけれども、1万2千円は割れないのかという様に考えております。ここの押し目が人生最大のチャンスと我々は考えていますし、もっとも株価ですから日経平均と同じように動くというものでもありません。大いなるチャンスを今年生かして頂いて、もし何か聞きたい事がありましたら遠慮無く大和証券に聞いて下さいます様にお願い致します。以上で終わります。

 出席できなかった年男   おめでとうございます
  
   栗林 延次  会員     宮原 邦彰 会員
  村田 徹也  会員     泉   敬  会員
  白崎 義章  会員     石井 宏幸 会員
  田中 俊司  会員     田嶋 哲也 会員

   小野寺寛隆  会員



会長の時間
1 月 19 日(木) 会員卓話「北海道の電力事情」 宮本英一会員    
会長の時間 会長の時間
本日合計 本年度累計
24.000円 960.000円
日時 会員数 出席率
1月5日 99名 62.6%