2004〜2005年度 第28回(通算2868回) 例会報告

2005.2.3


会長 久島 貞一・幹事 浅野  洋

広報・会報委員長 西村 智久




     羽生 武喜 副会長


本日は会長が不在でございまして私、副会長が役不足ですけれども(新入会員の甲賀伸彦さんへの)歓迎の言葉をさせて頂きます。今奉仕と言っていましたが、我々ロータリアンは職業を通じて奉仕するという事で、割と労働奉仕というか実務奉仕よりも一生懸命自分の職業を通して奉仕するという事になっています。私もまだあまり良く理解していない部分が多いのですけれども、とりあえずロータリアン、皆と仲良く例会に来て頂いて一緒に食事をしながら、色々な話をしながら早く仲間になって頂ければより楽しいロータリー生活が出来るのではないかと思っております。是非、甲賀さんには楽しくロータリーをエンジョイして頂いて、なるべく早く仲良くなって頂ければよりここの敷居も低くなってくると思いますし、楽しいロータリー生活が出来ると思いますので、仲良くしましょう。ありがとうございました。丁度100人目のメンバーでございます。区切りの良い所で改めて歓迎いたします。ありがとうございました。






 


1)ガバナー月信 8号、ロータリーの友2月号が届いています。
2)3月5日のIMの参加締め切りが迫っています。多くのご参加をお願いします。


節分の話」 大道 光肇 会員卓話 
            

大道 光肇会員

 

今日は節分という事で節分の由来とかそれにまつわる色々な習慣がある訳でございますけれども、それにつきましてお話をさせて頂きます。ご存じのように節分というのは春夏秋冬の前の日を言う訳です。昔は4つあったそうですけれども、どの様な訳か冬から春にかけた立春の前だけが残ってしまって後は廃れてしまったという事で、いずれに致しましても節というのは節目という事でございますから、季節の節目、変わり目という事です。それでこれはどこから来たかというと、中国からきている訳でございますけれども、中国には陰陽学というのがありまして、陰と陽、その季節の変わり目にはその天変地変というかそのバランスが崩れて、邪気が人間に及ぼすという事で、その様な時にお払いをして大難を小難に変えるというかそれを逃れようという習慣があったという事で、紀元前3世紀頃にいわゆる季節の変わり目に宮中でその様なお払い事があったという事です。その時には豆をまくという事ではなくて邪気とか人間に災いを及ぼすものとして鬼という、疫をもたらす鬼を払うという、鬼に例えて払うという事です。その時には葦の茎とか葦の幹とか、それから桃の枝などを弓矢で作って、それで追い払うというその様な儀式があったそうでございます。それで日本に於きましても7世紀から8世紀に掛けて、平安時代が盛んだった訳ですけれども、いわゆる貴族の間で同じような事をしていたという事でございます。陰陽学というのは私も良く解りませんけれども、全てこの世は陰と陽という事でバランス良く調和良く生きるというか、その様な生き方をするというのが人間として大事な事だというのです。男と女もこれです。それから凸凹、それからマイナスプラス、それから明と暗とか、その様なものをバランス良く調和していく生き方というものが大事だという事です。それが狂うと人間もおかしくなってしまうという、それをさせない為にその様な行事が出来たのではないかと思います。本来は立春の前、今日は2月3日ですけれどもその前の日と言いまして、昔は大晦日にしたというのです。どの様な事かと言うと、今は太陽暦ですけれども、旧暦、陰暦におきましては丁度春というのは新しい年に当たるのです。1月1日から春なのです。ですからその前の日ですから大晦日になってしまうのです。それで1年の終わりという事でその様なお払いをしたと、色々な疫を除くというか災いを除いて新しい気持ちで年を迎えようという事で大晦日に行われたという事です。それで旧暦というのは閏月というのがございまして、13月というのもあったらしいです。今は閏年がありますけれども、閏月と言って月の満ち欠けによって1ヶ月しますので、そうすると段々狂ってくる訳です。ですから毎年変わってくるというか、その調整をするのに閏月というのが出来たり非常に複雑だったらしいです。ですからその季節の変わり目というのも非常に難しかったらしいです。毎年違ったというのです。今はもうはっきりしています。とにかく立春の前にその様な儀式をして、お払いをして、そして災いを避けようという、昔からその様な伝統が伝わってきたという事でございます。それで何故豆を蒔くようになったと言うと、これは実は豆というのは摩滅という悪魔を滅ぼすと書く、それから悪魔の目とその様に言っていわゆる鬼の目をつぶすとか鬼の目を追い払うという事で摩滅とか魔目というのが豆になってしまったらしいです。ですからたいした意味はないのですけれども、私は豆で鬼が追い払われるとは思わないのです。これをどの様にとらえたらよいかと私なりに解釈しますと、豆というのは辞典を見ますと、あの人はマメだ、真面目だという事、それから何事も一生懸命するという事です。それから几帳面だという事です。それからよく筆まめという事もあります。筆まめという一生懸命手紙を書いたり、そういう事でマメというのは非常に綿密であり、それから陰ひなたが無く誠実に生きるというそういう事だと思うのです。ですからその様な気持ちで生きていくならば、悪いことも避けることが出来るのではないかと、その様な事で考えたい訳ですけれども、またある文献に拠りますと鬼は豆が好きだというのです。色々な豆がありますけれども全ての鬼が好きだと、だから寄ってくるのだというのです。豆を蒔いて払うのではなく、豆で鬼を供養してそして満足して頂くというその様な意味もあるらしいのです。だからいわゆる鬼は外、福は内と言います。これは定番になっておりますけれど、逆に言えば鬼を供養するというのです。鬼に供養して喜んでもらって、そして災いを起こさないようにしてもらうという、その様な考え方もある訳です。それで福は内というのは自分がそのいわゆる幸せになるようにとか、願い事が叶うように、福をもたらすようにと考えますでしょう。鬼は外というのはその様な疫、あるいは災いとかその様なものがどこかに行くようにという事なのです。すると払う訳ですからどこかに行ってしまわなければならない訳です。するとどこへ行くのだろうかと、皆払ってしまったら鬼の行く場所が無い、それで良いのかという事なのです。ですからロータリー的に考えますとそれではいけないのだと。昔は考えました。貴族の方、お坊さんです、鬼を改心させるといういわゆる秘法があって、鬼を良い鬼にする。悪い鬼を良い鬼にするというのをいわゆる密教系のお坊さんがしたというのです。それで今、我々仏教では鬼は仏教を護る神様として、絶対に追い払いません。それから聞いた話しですけれども、鬼を奉ってある寺では鬼は外と言えないそうです。ですから何と言うかと言いますと「鬼は内、福は内」というのです。そこでは。またある臨済宗ではお坊さんが豆まきをする時には逆に言うのだそうです。「鬼は内、福は外」と言うのです。それがどの様な事かというと、鬼は内というのは私達の心の中に鬼の様ないわゆる悪い心がありますよ、それに気がつきましょうという事なのです。そして懺悔をしてその様な心に染まらない様にという、鬼は皆の心の中にあるのです。確かにそうです。よこしまな心を起こしたりしますから。その様なものを戒める訳です。それで福は外というのは、そのお坊さんは外に対して幸せをもたらさなくてはならない、そういう使命がある訳ですから、一人でも多く幸せになって世界の平和とか、国の平和とか、それから近隣に優しく、慈悲を持って接しなさいという事は福を余所に向ける、自分より相手に対して喜んでもらえるような事をするのがお坊さんの勤めだと、それから「鬼は外、福は内」と、自分だけが良くて悪いのはあちらへ追っ払うという事になると、追っ払われたのはどこに行っても行きようがない、その様な無責任な事は出来ないという事なのです。それで定光寺はどうするのかと言うと、「福は内、福は外」と言うのです。鬼は外と言わないのです。今日は3時からありますからどうぞ宗派は問いませんから、どうぞねんごろに私はご祈祷させてあげます。
そういう事で話は変わりますけれども、いわゆるその様な事で地方に寄ってまちまちだという事です。今日も私の師匠が大本山、曹洞宗の本山でやはり豆まきをしています。5万人来るのだそうです。境内一杯になるのだそうです。そしてその入り口で豆を売るのです。それで買うのです。それでまた芸能人が沢山、宗寺には石原裕次郎のお墓がありますから、あれは1億5千万したそうです。すごいです。それで石原軍団とか巨人軍の選手とか、それから映画俳優とにかく芸能人が沢山来て、それで蒔くのです。その様な事で厄払いをするという事です。昔は厄年の人がしたらしいです。女性の19歳と29歳と33歳、33歳が本厄、男は25歳と42歳、42歳が本厄と。それで前厄、本厄、後厄と3年間はやはり気を付けなければならないという事が昔からいわれておりますけれども、それは仏教とは関係が無いのですけれども、人生の節目としてやはりその様な気を付けなければならない時には気を引き締めましょう。それで先ほど豆という話になりましたけれども、ではどうして生きていったらよいのか、厄とか災いがあります。去年は天変地異、ひどい自然破壊というかその様なしっぺ返しが来た様なものですけれども、我々はそうしたらどの様に生きていったら良いのかという、人間と言います。我々は人間(じんかん)という、お経の中にじんかんと書いています。じんかんと読むのです。人間を。どういう事かと言うと、人というのは持ちつ持たれつ。人という字は支え合っています。それでこれは世の中は持ちつ持たれつ生かしあいという、私の標語がございます。そういう漢字なのです。間というのはどういう事かというと、あいだです。まです。人と人との間です。相手と私の間です。それを大事にしない人を間抜けな人間というのです。間を大事にしないから間が抜けているのです。自分の事ばかり考えてその様な相手の事を思いやらない、そのいわゆるコミュニケーションというか、それがじんかん(人間)の意味なのだというのです。いずれに致しましても間を大事にする人が真面目な人であり、間を大事にしない人が間抜けな人という様に言われている訳です。口では何でも言いますけれども実際には難しい事ではございますけれども、いわゆる縁を大事にするというか仏教は因縁の教えですから、すべてこの世は因縁でなりたっているという事、原因がありそれを助ける縁があるそして結果が出てくるのだという、自然の法則もそうなのです。因縁に昔の人はその自然の法則、因縁に逆らわないで生きてきた、それで謙虚であったのです。それで恐れ、良い意味での恐れです。それから先ほど言った邪悪なものに対する、あやしげなものに対してその様な謙虚な気持ちで人間というのは弱いものだから神の教え、仏の教えにすがって、そしてその様な儀式をして少しでもその悪い事が及ばさないように願いを込めてした訳です。今の時代はそうではないです。いわゆる征服したり、自然を征服するとか、色々な自然破壊が行われていますから、それはしっぺ返しが来たのではないかという様な気がしないでもないです。ですからあくまで謙虚でなければならない、それを大事にしなくてはならないという事です。私達も色々な教えがありますけれども、本当に相手に接する場合には相手の立場に立って物を考えなさいという事です。それからそれは人間だけではなくて、物に対しても扱う時には、深く思いやれというのです。恋人と別れるとしれという、恋人に分かれるような気持ちで物を扱いなさいというのです。そうです、恋人と別れるときはそんな粗末な事は出来ません。その様な気持ちで接しなさいという事なのです。その様な教えがございます。いずれに致しましてもそういう事です。

 

新入会員の紹介
氏 名  甲賀 伸彦
勤務先 甲賀伸彦税理士事務所
職業分類 税理士
所属委員会 親睦活動委員会

城山で税理士を開業しております甲賀と申します。よろしくお願い致します。この度大学の先輩である矢沢さんとそれから私が高校時代にアルバイトをさせて頂きました岩淵さんのご推薦を頂きまして、この歴史と伝統のある釧路ロータリークラブにご入会させて頂ける事となりました。どうもありがとうございます。奉仕というのは今まで自分自身でした事がないですし、その様な経験も無いのですが、諸先輩方の奉仕の精神を見習いながらそれを少しでも出来るような人間になっていきたいと思いますので、ご指導の方、よろしくお願い致します。


本日のソングリーダーは野村幸男会員です PHF認証を受けた浅野 洋幹事 ロータリーの友2月号を紹介した大久保雑誌委員長


 

      2月 10日  「釧路市の地名と釧路の歴史」  
                       釧路地方の歴史を考える会 会長 古谷 達也氏      
    


関向  一 例会中の携帯電話が鳴り、申し訳ありません

本日合計 本年度累計
25,000円 1,207,540円


日時 会員数 出席率
1月  27日 99名 62.2%