2004〜2005年度 第14回(通算2854回) 例会報告

2004.10.14


会長 久島 貞一・幹事 浅野  洋

広報・会報委員長 西村 智久




  久島 貞一 会長


 昨日、釧路北ロータリークラブの公開例会を訪問してまいりました。ロータリー100周年記念公開例会ということで釧路クラブからも16名参加しました。記念講演として広報アドバイザーとして活躍中の三隅説夫氏が『今そこにある危機』と題して講演なさいました。大変意義のあるお話でありました。このような例会を企画された足立会長以下釧路北ロータリークラブにに心から敬意を表するしだいです。
 話は変わりますが、最近世間をにぎわしているライブドアと楽天のプロ野球参入問題を興味深く見守っております。両方が認められて球団数も増え、球界が活性化して景気回復の原動力になっていただければいいと考えております。本日は以上です。





 


1)釧路南RC  10/11(月)  休  会  振替10/17(日)スポーツ例会」

2)釧路北RC  10/20(水) 星園高校講演移動例会  星園高校 12:30〜


「新入会員卓話」

 山口房伸プログラム委員長

 日頃ロータリー活動にご理解とご協力を頂き誠にありがとうございます。
先般、次週例会での新入会員卓話のご案内を申し上げたところ、5名の新入会員の方が出席していただけることになりました。30分という限られた例会プログラムの中での卓話でございますので、各自が5分程度の持ち時間しかございませんが、この機会の皆様の仕事や趣味の話、また今までの人生経験や釧路の印象など、どんな話題でもけっこうでございますので楽しいスピーチをして頂きたいと存じます。




 野村幸男 会員

6月17日にご入会をお許し頂きました、野村でございます。4ヶ月皆さんのお仲間に加えさせて頂きまして、本当に有り難かったと思っております。ご当地には初めてでございまして、右も左も分からないという所でございましたが、それこそ歌の文句ではございませんけれども街を歩いていると「やあ」と声を掛けて頂いたり、手を振って頂いたりという事でございまして、釧路になじむに当たって本当に皆さんのご協力あってこそという事で感謝申し上げております。その様な仕事面のみならず、先日はお芋掘りにも行かせて頂きましてこちらの自然を堪能させて頂きましたし、それから今年初めて夏を過ごした訳でございますけれども本当に過ごしやすくて、皆さんからお話しを聞くと今年は非常に暑かったという様におっしゃっていますけれども、私等からするとなんと贅沢、非常に気候がよく、家族もなかなか帰りませんで8月の29日までぎりぎりまで居て、それから地獄の様な東京に戻ったという様な事でございます。私、今日も上京する事になって、勝手を言わせて頂いて最初に登壇させて頂いております。次に私の生業の話をさせて頂きますと、ご承知の様にこの11月1日に私共、新しい商品券を発行することになっておりまして、皆さん大変ご愛用頂いている事と思います。先程会長から景気が悪いと伺ったのですけれども、今集計中なのですが、釧路市とその周辺の辺りで現金がどの位出回っているのかと思っていますと、大体、1400〜1500億円は有るはずでございます。釧路支庁というのでございますのでしょうか、その辺りで使われているのが千数百億円位、千数百億円というと何かイメージが湧かないと思いますが、札束で積み上げますと大体2400mから2500mですから、きっと雄阿寒岳とか羅臼岳より高い所までいきますし、たとえば北大通から駅の所から敷き詰めていきますと大体末広と栄町位までは全部埋めてもまだ少し余る位の量がございます。大変景気の良い話でございますが、これを11月から2年間位かかるかと思いますけれども、新しいお札に切り替えていく訳でございまして、2000円の流通に当たってはロータリーの皆様方に大変ご協力を賜ったと前任の増田から引き継いでいます。新しいお札の流通につきましても是非ご協力を賜りますように、今日はお礼を申し上げるはずがお願いを申し上げて終わらせて頂きます。よろしくお願いを致します。


 松田一郎 会員

 松田でございます。今のお話しと少しだぶってしまうのですけれども、私も初めての北海道、旅行では来た事が有るのですけれども、4月から初めての勤務をしていまして、びっくりしたというか、一部感動も含めて驚いた事がいくつかあります、大きく驚いた事は3つ位ありまして、1つは先程と全く同じで夏の涼しさです。大阪近辺十数年、名古屋勤務十数年居ましたものですから、しかもビルの谷間を仕事柄営業という事で歩き回った、特に私共の会社はすぐキャンペーン月をするのですけれども、7月が大キャンペーン月で7月戦といったらまさに暑い中の戦いと8、9月位になるともうぐったりしてしまいまして、大体体調を崩すのですけれども本当に今年は生まれて初めて、本当にびっくりしました。先程と全く同じなのですけれども、大阪で単身赴任したときは余り来なかった女房が最近はちょくちょく来まして夏は本当に感動していて、僕も本当に感動していたので会社の中では絶対長期滞在だと、1日2日ではなくて長期滞在に北海道ではなくて釧路だなと、帯広とか北見も網走も根室も自分が担当なものですから行くのですけれども、夏は本当に釧路が一番良いと社内の中でもPRして、最近は会社の中でも長期休暇みたいな物が結構昔よりは取れますので、その気になっている人も結構いますので来年位はどっと押し寄せるのかという様に思っています。それが一つと、3つ有って2つめはとにかく広いなと分かってはいたのですけれども、来てみて本当に分かる事があって自分の管内は大体四国の2個分あるのですけれども本当に広いなと、時間軸といいますか、時間に対する概念が少し変わってきまして、少し前まででしたら30分、1時間位なんて言ったらえっという感じだったのですけれども、今はああ1時間か、1時間でいくのだなという感じで、どこに行くのも2時間位かかるものですから、なんというか時間軸というかそういった物が少しずつ自分の身体の中に変わりつつあるのが最近感じます。それで本社にはヘリコプターをくれと、この様に真面目に言っていて、本当に有ったら良いなとこの様に思っています。最後には水にびっくりしました。食堂に入って普通はお茶が出てくるのですけれども、どこに行っても最初は水が出てきたので何故という感じで、お茶は言わないと出てこなくて、逆なのです。普通はお茶が出てきて水は言わないと出てこないのですけれども水が最初に出てくるものですから最初は違和感があったのですけれども、そんなに味は分からないのですけれども、何か気分もあって最近何か水が段々好きになって暇さえ有れば水を飲んでいると、夏の気候と広さみたいな所の自然と水みたいな所で生意気かもしれませんけれども、ずっと回っていまして帯広とか網走とか北見とか、これは直感なのですけれども、結構元気はあるのですけれどもどうしても釧路とか根室とかなかなか厳しいなと自分も仕事をしていまして、その様な良い物を長期滞在型観光みたいなその様なものをどんどんもっともっとPRして、とにかくぼけーっとした2、3週間を過ごせるような所で本当に良いと思いました。美幌峠からみた屈斜路湖も素晴らしかったです。それと弟子屈から向かった川湯温泉に入る緑の、なんと言いましょうかアーチというのか、それも感動しました。その様な事で終わらせて頂きます。ありがとうございました。

 山谷賢量 会員

 北海道新聞の山谷です。私は過去の暮らしの一端を申し上げさせて頂きたいと思います。先日、ここからは少し遠いのですけれども、ロシアのコーカサスの方で北オセチアの方で学校占拠事件がありました。公式発表だけで330人、一説には500人も死者が出たと言われている北オセチアの学校占拠事件でしたけれども、そのロシアの事についてですけれども、プーチン政権まではこの事件について国家統制を強めて冬の時代に逆戻りするのではないかと懸念も国際的な批判も出ておりますけれども、私はそのロシアに2回、特派員として滞在しました。1回目はペレストロイカ、ゴルバチョフのペレストロイカ真っ最中の1987年3月からゴルバチョフが書記長制度を廃止して大統領になった90年3月までです。それから2回目はソ連邦が崩壊して新しいロシアになりました1993年の春から95年の春まで通算で5年です。2回目の時には例のロシアのホワイトハウスと呼ばれた最高会議ビルの砲撃事件、最高会議ビルというのは日本で言えば国会と政府庁舎を兼ね合わせた様なものすごく大きな所ですけれども、そこに橋の上から戦車砲がぶち込まれた状況は、私の支局から100mから200mしか離れていない所だったのですけれども、そこで見ていました。その様ないわば2回ともソ連ロシアの激動期に滞在出来たというのは記者冥利に尽きるかと自分なりに思っておりますけれども、その中から少し当時の、これは体験した者でなければ分からない事なのですけれども、生活の一端を申し述べてみたいと思います。まず一つはなんと言ってもゴルバチョフ政権時代というのは私共特派員にとってはもの凄く忙しい時代でした。本当に目が回るというか、超多忙な時代です。というのは、ニュースがもの凄く多かったのです。当時ソ連のメディアのニュース配信の中心になっていたのはタス通信です。皆さんもお名前は聞いた事があると思いますけれども。タス通信はロシア語で書かれたニュースが流れてくる巻きとり紙があるのですけれども、丁度トイレットペーパーを想像して頂ければ良いと思います。トイレットペーパーを少し短くしたような、長さは20cm超。それに全部ニュースがロシア語で書かれた、例えばソ連の当時の共産党の発表したものとか、政府の決定とかクレムリンの話とか地方の話、それからこちらの極東、サハリン、カムチャッカはもちろん、当時北方領土の周辺では日本漁船がしょっちゅう銃撃、拿捕されていましたけれども、その様なニュースも全部流れて来ました。それがこの様な太いものが1日に2本ぺろっと無くなるのです。その位ニュースの配信量が多かったのです。それを見ながら我々はその中から日本のこの狭い新聞に載せるには何をその中から取捨選択して書くかという事で毎日辞書を片手に朝早くから夜遅くまで首っ引きの様な状況でしていましたが、本当にもの凄い目の回るような忙しい日々でした。特に日本はモスクワと時差が、今はもう冬時間ですけれども6時間あるのです。夏は5時間ですけれども、6時間というと今1時少し過ぎですから、むこうでは朝の7時過ぎなのです。ということはもう夕刊の時間帯がもう夜の時間にこちらのニュースの時間が終わってしまうとそういう状況で、むこうのお昼になると今度は朝刊の早版の締切の時間になるという、毎日1日一杯仕事に追われる。後もう一つニュースの思案としてブレミアという日本で言えば、NHKの7時のニュースみたいなものですけれども、定時番組が1日1回だったのです。夜9時のブレミア、ブレミアというのは時間とか時とかという意味なのですけれども、これを見逃すとその日の大事なニュースを落としてしまうというその位大事なニュースです。9時から放送して大体9時半か9時45分位まで、という事は日本時間で言えば朝の3時過ぎです。そこから出て行って夕刊用の仕事をする訳です。そうすると本当に午前様で夜が白けて来るまで何か大きなニュースがあるとその様な事がしておりました。3年居て帰ってきたら会社の先輩からもう君の名前が新聞に載る事はそんなに無いと言われましたけれども、本当に当時1日3本4本、特派員原稿というのは全部当時から名前付きでしたから、本当に書きまくったと感じたくらい忙しい時期でした。それが1点、それからもう一つロシアはその当時もそうでしたけれども、今もうプーチン政権になってその様な揺り戻しみたいなものがあるのかと思っているのですが、もの凄い監視社会です。私たち外国人居住者が住む所には自嘲気味に外国人ゲットーだと言っていたものですけれども、出入り口には民警、民警というのは日本のお巡りさんとは少し違うのですけれども、ミリツアとロシア語で言うのですけれども、我々は民警と呼んでいました。その民警が必ず出入り口に24時間立っている訳です。日本で言えば大臣になると大臣の警護をする為に大臣の自宅の前にお巡りさんが小さなボックスを作って立っています。あの様なボックスがありまして24時間監視付き、今誰々が出たぞと、そうするとそれをどこかに連絡しているのです。連絡先は多分外務省かあるいは当時の国家保安委員会か何かだと思うのですけれども、その様な所に全部監視されておりました。しかも当時ソ連には国別に番号が付いていたのです。日本は5番、アメリカが4番、1番は確かイギリスだったと思うのです。これは外交関係が一番早く出来たせいだと思うのですけれども、加えて特派員はコレスポンテンというのですけれども、ロシア語で言うと英語のCがロシア語にするとKに当たるのです。外交官はディプロマットと同じですから英語と同じでDですけれども、それで例えば私の番号はカーの005とその下に3桁の数字が付いていました。カーでこれは特派員で5番だから日本だと、今車のナンバープレートだけ見ればどこの誰がどこどこに出たのだと言う事が全部分かる、町中走っていても全部分かるとそういう監視社会です。しかも自宅の中でもアパートですけれども、その中にも盗聴器が掛けられているという事で脅されていた様な状況で大変な時代でした。ところがそのミリツアが夜仕事が終わって外へ出てくると夜の真っ暗い時に時々声を掛けるのです。何を言ってくるかというとカレンダーをくれと言うのです。日本製のカレンダーというのは当時ソ連ではもの凄い人気で特に日本人形とか女性の方には少し失礼ですけれどもセミヌード的なものはもう大人気で本人が欲しいだけではなくて、そのお巡りさんの上の方に上納するというかその様な要請もあったようで、しょっちゅう日本人の各社に声がかかっていました。真夜中の暗い中でいきなり声がかかってくるものですから、こちらはドキッとするような感じを抱いて、今でもざわつく様な感じを覚えています。時間が過ぎましたので後1点だけ、最後に私の失敗談ですけれども、当時はその様な事で厳しい監視社会でそれから外務省の記者会見も全部外務省が正式にお膳立てしたもの以外は公式には認められていませんでした。行ってまもなく、2、3ヶ月位だったと思うのですけれども、たまたま少しアパートで民族問題関係の記者会見をするという事で、来ないかと、行かないかと誘われまして行きました。それでは私の車で行きましょうという事で当時朝日新聞の特派員と東京新聞の特派員を乗せて行ったのです。その記者会見自体はごく正常に終わったのですが、帰ってきて翌日見ましたらどうも若干車が少し傾いているのです。車の駐車場というのは支局と自宅までは5分位の近い所でありました。その対角線上に駐車場があったのですけれども、少し傾いていると。変だと思って行ってみたら後輪の確か左側だったと思うのですけれども、内側に釘が刺さっているのです。外側から刺さっているのではない、内側から、明らかに走っている時に拾ったものではない、帰ってきた時には全く問題は無かった、しかも内側に5寸釘です。この様な太いのが刺さっている訳です。これは何かと言うとむこうの警告なのです。公式の私たちがオフィシャルでセットする以外のものには行くなとその様な所に行くとその様なあれが有るぞという事で、今でもその様な警告を受けたという事をきわめて印象的に覚えております。まだ沢山有るのですけれども、時間が過ぎましたのでとりあえずこれだけで終わらせて頂きます。


 舟木 博 会員

こんにちは。浪花町で米屋をしております舟木と申します。どうぞよろしくお願いします。今、国際的な話をしたので私は米屋をしていまして色々な所を少し見て回ったりしましたので、皆さんが新聞等で見ているのと、また政府とか役人が発表しているのと随分違うというのがありますので、少し話させてもらいます。米騒動があった平成5年の大騒ぎは皆さんご存じだと思うのですけれども、あれと前後してアメリカとか中国、それからベトナム、タイ、豪州というかその辺りを少し見て回ったのですけれども、外米がいくらでも有るという形で皆さん思っていたと思うのですけれども、実際に行ってみて感じた事なのですけれども、アメリカとオーストラリアはほぼ同じ様な状況で水、水にかかっています。工業用の水が優先なので農業用水というのは2の次みたいな形になっております。それで水を使うという事を非常に嫌っております。実際、本当は水を使わないのですけれども、使うように見えるという事で嫌っております。お米の量的なもので言うと時期的なものがあります。大型コンバインでジョンディアの4、5m位あるもので人工衛星を付けて朝晩、一昼夜、5日間も6日間もそのままレーダー、人工衛星を使いましてそれでもって収穫をしているのですけれども、その様な形でもって種も飛行機で直販という形でしております。その中で今アメリカの場合でしたら東洋系の人間が非常に増えまして、ジャポニカという形は非常に少なくなっております。豪州も似た様な形です。後はタイが非常に面白いのですけれども、あの時に入ってきたお米というのは食糧庁の役人がゴミみたいな米をかき集めましてタイに言ったらタイの役人が怒っていました。我々はきちんとしたお米を3ヶ月あればきちんと用意出来る、実際に3回4回出来ますのでタイ辺りですと、それでジャスミン米という形で非常に高価な米も沢山ありますので、あれは我々が役人にだまされたというのが正直な話です。それから中国なのですけれども、中国の主流も今はジャポニカが主流になっています。単純に安かったのでインディカの米が主流だったのですけれども、最近はほとんどが収入が高くなると同時にジャポニカに変わっています。それでレッサブラウンという学者の話なのですけれども、地球の人口が1950年それから98年まで大体倍に増えております。その中で400万年かかって増えた人口を我々の世代でもって今それを超えていると、さらに後数十年経った時に93億人、100億人までいくと、今実際に8000万人ずつ毎年増えています。8000万人というとイギリス、デンマーク、それからノルウェー、それからベルギー、それらを全部合わせた位の人口になります。それと同時に大体3分間で400人位ずつ人口が増えていっています。その中で水と食料、間違いなく不足すると思います。我々今米屋をしている中で一番大事にしているのが環境に優しい米という事で昔ながらの中山間地の今捨てられている田んぼ、畑、そこから獲れる米、棚田という米なのですけれども、それを今ライフワークという事で一生懸命回っております。最近ですと新潟の上越市に丁度清里という所なのですけれども棚田集落という全く棚田という地名の所を発見しまして、今そこから契約栽培で獲って皆さんにわずかな量なのですけれども売っています。後、上和田有機米と言って米田の隣に高畑町というのがあるのですけれども、そこは食味で日本一の有機米を作っていますのでそこも二十数年来つきあった中で今していますけれども、段々昔趣味でしていたのが時代の流れに乗ってきたのかと思いながら過ごしている最近です。どうもありがとうございます。


麻生博文 会員

 9月2日に入会させて頂きました麻生でございます。もうあまり時間が無いようですので、手短にさせて頂きます。入会の時に少しご挨拶しました通り7月に釧路の方に単身赴任で参りました。それこそ54年に結婚しまして仕事の都合で8回程転宅をしました訳ですけれども、今回初めて単身赴任という生活をしました。そこで釧路での当面の健康管理という事で少し私事で恐縮ですけれどもお話ししたいと思います。1つはたばこでございます。私も学生時代から30年以上ずっとたばこを続けて参りました。今回単身赴任に当たって少し独身時代の事を思い出しまして、独身の頃に仕事が徹夜続きでつい寝たばこをしましてそうすると布団につきまして、それが肩にやけどをしましてその痛さで起きたという様な経験があったものですから、今回単身でこちらでその様な事があったら大変だという事で思い切ってたばこを止めました。只、夜飲んでいる時はどうしてもついつい1、2本吸っている人からもらって吸っていますので、まだ完全に止めたとは言い切れません。それから2番目は運動です。こちらに来る前はそれこそ満員電車の中で長い通勤時間を掛けていた、それはそれなりに非常に運動になっていたのかと思っていたのですけれども、やはりこちらに来ますとどうしても車生活に入りますし、そこで何とか運動をしたいという様に思いまして、釧路に来ましてすぐにどこかフィットネスクラブが無いかという様に考えまして、聞いたら丁度MOOの5階にそのクラブがありますと聞いたものですからすぐに入会しまして、しかも途中で止めないで済むように年会費を払って行っております。大体今月10回程行っていますけれども、マイペースで運動出来ますしある意味では非常に気分転換になって良いかと思っております。只後で知ったのですけれども、このロータリークラブの会員の中にフィットネスクラブを経営されている方が居ると聞きまして、その当時は知りませんでしたので、申し訳ございません。それから3つ目は食事です。こちらに来る前に家内から納豆と緑黄色野菜を採りなさいという様に言われて参りました。それこそ私は初めて料理する形になります。余り弁当等を買って食べるのは好きではありませんし、1人でどこかに外食するのもかったるいという事で飲み会等が無い時はなるべく自分で料理を作ろうかとその様に思いますけれども、なにせ初めてですからレパートリーはたいしてありません。ちなみにある1日のメニューを言いますと、朝食は食パンの上に納豆を置いて、それからスライスチーズを置いて、そしてそれをオーブントースターでチンと、それからグレープフルーツジュースとそれからトマトとレタスのサラダとヨーグルトという様な感じで朝食を済ます、昼は大体会社でそばでも食べる、夜は飲み会が無い時は簡単に出来るものとして大体鍋が多いです。例えばしゃぶしゃぶという様な形で豚肉のしゃぶしゃぶで白菜、タマネギ、にんじん、ピーマン、それからシメジとそういったものを入れてそれを肴にビールと焼酎を飲むと、いう様な感じで今のところしております。これがどこまで続くかというのは分かりませんけれども、このクラブにはお医者さん方も沢山居られますので何か良いアドバイスがありましたらよろしくお願い致したいと思います。ありがとうございました。


 

   「高等学校における進路指導の現状と課題」
         道教育庁釧路教育局高等学校教育指導班 主査 蓑島 崇 氏
    
                 


栗林 定徳  市より産業部門で賞を頂きました
本日合計 本年度累計
34,000円 575,000円


日時 会員数 出席率
10月 7日 100名 103.4%